[#挿絵画像 (01_000a.jpg)] [#挿絵画像 (01_000b.jpg)] [#挿絵画像 (01_001.jpg)] [#挿絵画像 (01_002.jpg)] [#挿絵画像 (01_003-005.jpg)] [#挿絵画像 (01_006-008.jpg)]  電撃!!イージス5 (た-17-7 ¥490 電撃文庫 Media Works)  作/谷川《たにがわ》流《ながる》  1970年生まれ。兵庫県在住。『涼宮ハルヒの憂鬱』で第8回角川スニーカー大賞 <大賞> を受賞。受賞作と今シリーズ第一作との二冊同時刊行デビューを飾る。2004年現在「電撃萌王」にて後藤なお氏とコンビを組んでビジュアルノベル『電撃!!イージス5』を連載中。  イラスト/後藤《ごとう》なお  『ザ・サード』シリーズ(著:星野亮 富士見ファンタジア文庫刊)のイラストや、『熱風海陸プシロード』のキャラクターデザインなどを担当するイラストレーター。  カバーデザイン/あかつきBP  デザイン/荻窪裕司  変人科学者として名をはせる祖父の監視を両親から命じられ、祖父宅を訪れた僕——ところが祖父の姿はなく、なぜかそこに住んでいた五人の美少女たちと一緒に暮らすことになり、しかもこの世界は他次元侵略体なるものに侵略を受けているとのことで……。  そんなこんなで苦労している僕に向かって祖父宅を管理するエロ人工知能は、『この数日間、風呂も覗かなければ寝込みも襲わない、暗闇に連れ出そうともしなければセクハラの一つもしないとは、こんなことで今後どうやっていくつもりで?』と嘆く始末——。  いったい僕にどうしろと?  谷川流が贈る新シリーズスタート! [#改ページ]  電撃!!イージス5 CONTENTS  第一話・『盾と羊と』  第二話・『スピード&サイレンス』  第三話・『園児と海』  第四話・『微笑み鎮痛剤』  第五話・『ドッグスター』  あとがき代わりの思い出話 [#改ページ]  第一話 『盾と羊と』  時は春の夕暮れ、僕は祖父が住む古い洋館《ようかん》へと歩いていた。今春、念願《ねんがん》の大学生となった僕は、大学がたまたま祖父の家の近所と言うこともあって、そこに下宿することになったのだ。変人科学者として名の知られている祖父が、ここしばらくまた怪しげなことをしているらしく、その噂《うわさ》を気にした両親が、お目付役として僕を派遣したということでもある。  思い出す。  今年の正月、お年玉目当てでその屋敷《やしき》を訪れたとき、僕は奇怪な機械《きかい》の実験《じっけん》に付き合わされた。スイッチらしきものを押しても取りたてて何も起こらなかったが、祖父はブツブツと何かを呟《つぶや》いて配線をいじりだし、おかげで僕は年始における孫への金銭提供という重要行事を忘れてしまった祖父のもとからすごすごと退散せざるを得なかった。そんなのが大学の名誉教授なんかをやっているのだから、世間は騙《だま》されやすい人間が多いようだ。  ふうふう言いながら坂を上がっていると、坂の上から自転車で降りてくる高校生くらいの少女とすれ違った。綺麗《きれい》だがどことなく強情そうな細面《ほそおもて》のその娘は、自転車のブレーキを軋《きし》ませながらチラリとこちらを一瞥《いちべつ》し、長い髪を風になびかせながら僕を避《さ》けるように蛇行して行った。  まるで不審《ふしん》人物を見る目だったが、気にしないでおこう。  さらに歩みを進めていると、坂の中腹の道際で、また別の少女が屈《かが》み込んでいるのに出くわした。  気分でも悪くしているのかと足を止めて様子《ようす》をうかがったところ、その女の子は分厚《ぶあつ》い書物を地面に広げて、道ばたの雑草とページを熱心《ねっしん》に見比べている。  気配《けはい》に気付いた少女が顔を上げて振り返った。中学生くらいだろう、草食動物を思わせる黒目がちの瞳《ひとみ》が僕を見つめ、にっこりと微笑《ほほえ》む。思わずつられて微笑み返してしまうような柔和な笑みだ。  よく見ると手元に置いてあるのは植物辞典で、どうやら坂の脇《わき》に生《は》えている雑草の名前を調《しら》べているらしい。その草にはたまたま見覚えがあった。 「それ、セイタカアワダチソウだよ」  僕がそう声をかけると、少女は二、三度パチパチと瞬《まばた》きし、それから「セイタカセイタカ」と言いながら図鑑《ずかん》をめくってその項を探し当て、「ほんとだ」と呟《つぶや》いて、また顔を上げた。  人なつっこい笑顔《えがお》がペコリと御辞儀《おじぎ》をする。仕草《しぐさ》が可愛《かわい》い。近所の子だろうか。それにしても厚い辞典まで持ち出して草の名前を探すなんて変な趣味《しゅみ》だ。 [#挿絵画像 (01_013.jpg)]  放っておけばいつまでもニコニコ微笑《ほほえ》んでいそうだったので、会釈《えしゃく》を返して僕はまた坂を上り始め、やがて蔦《つた》の絡まった古くさい煉瓦《れんが》造《つく》りの洋館《ようかん》が姿を現した。  開けっ放しの門を脇目《わきめ》に石畳を歩いて玄関まで辿《たど》り着き、とりあえずインターフォンを押してみる。すると、 『やあどうもこんにちは。ようこそいらっしゃいました。わたしはあなたを歓迎《かんげい》します』  インターフォンが聞き覚えのない声で喋《しゃべ》った。性別すら確《たし》かでない。イコライザを通したような音声である。 『申しわけないのですがちょいとここに、そう、ドアの横の黒いところに手を押し当てていただけませんか。なになに、取って食いやしません。ただの掌紋《しょうもん》認識《にんしき》装置です』  爺《じい》さんめ、また余計なモノを開発したと見える。この声も爺さんが変調《へんちょう》マイクか何かで話しているのだろう。ときどき孫たちを驚《おどろ》かして遊ぶのが祖父のささやかなジョークの一つである。  やれやれと首を振りながら片手の掌《てのひら》を押し当てる、と、いきなりその十五センチ四方くらいの掌紋認識装置とやらがパカっと割れて、右手が肘《ひじ》まで飲み込まれてしまった。 「うわっ! 何だ!」  何かに締《し》め付けられる感触。抜けない。 『再び、申しわけありません。掌紋認識装置というのは嘘《うそ》です。実はこれ、血液採取のためのものでして……ああ、そんなに暴《あば》れないでください。チクッとするだけです。動くと針が変なところに刺さる可能性がありましてですね。私は人間の痛みを数値でしか認識できませんが、それでも痛みに共感できる程度には優秀《ゆうしゅう》な人工知能なわけですよ。どうかお静かに……ハイ終わり』  突然腕が解放されて僕は尻餅《しりもち》をついた。これはいったい何の冗談《じょうだん》だ。新式のジョークにしてはちょっとブラックだろう。 『少々お待ちを。現在DNA鑑定《かんてい》中《ちゅう》です。えーと、確認《かくにん》しました。いやどうもすみませんねぇ、掌紋や指紋など最近まったく当てにならないもんですからね。ではどうぞお入りください。失礼ながら自動ドアではないので、ご自分でお開けください』  丁寧《ていねい》語口調がかえってむかつく。僕は憤然《ふんぜん》とノブをつかみ、重いドアを思いきり引いた。 「おいこら爺《じい》さん、悪趣味にも、」  ほどがある、という続くセリフを僕は吐くことができなかった。 「——!」  靴《くつ》脱《ぬ》ぎ場で棒立ちになっている小さい女の子、その恐怖に見開かれた目と目が合ってしまったからである。  少女はノブをつかもうとしてか右手を前に差し出した姿勢で硬直している。そりゃちょっと驚かせてしまったかも知れないが僕だって驚いた。まさか爺さんの代わりに小学生くらいの娘《こ》が立っているとは思わない。  女の子は目と口をまん丸にして紛れもない怯《おび》えた顔を作り、小さな声で、 「ひぃ」  と言った。 「あの……誰《だれ》?」  当然の、至極《しごく》当然の問いを発する僕から、ちんまりした少女はじりじりと後ずさる。僕はいったん外に出て玄関の表札を見上げ、そこに慣《な》れ親しんだ名字が楷書《かいしょ》で書かれているのを確認《かくにん》して再びドアを開けた。  少女はまだ呆然《ぼうぜん》とそこに立ちつくしている。 「ええと、ここ僕の爺《じい》さんの家で……」  説明しようとした途端《とたん》、彼女の首がぐらりと揺れて、そして後ろ向きに倒れていく。 「わわっ! ちょっと!」  慌てて僕は土足のまま踏み込んで背中を支えた。羽根布団みたいに軽い。クテっとしていた少女は、やがてゆるゆると目を開け、自分が今どういう立場にあるのかを知るや身体《からだ》をよじって僕の腕から逃れ、うつぶせに落ちた。手足をジタバタしつつ這《は》って逃げようとする。反射的に僕は少女の足首をつかんでしまった。彼女は「あわあわ」とか言いながら、なおも手足をバタつかせている。 「あのさ、だからキミは誰で、なんでここに……そうだ、爺さんはどこ?」  しかし少女にはまったく聞こえていないようで、ひとしきりもがいた後、バッテリーが切れたように動きを止めて床に横たわった。  さすがに心配になって様子《ようす》を見ようと身を屈《かが》めたとき、間の悪いことに、まことに間の悪いことに、背後で扉が開いた。振り返ると、 「わたしとしたことが、買い物しようと街まで出かけたら財布を忘れていることに気付くという初歩的なマジボケをしてしまうとは失態でしたわ。埜々香《ののか》、お財布を——」  坂の途中で見かけた髪の長い自転車少女だ。靴を脱ごうと片足に手をかけたまま、僕の下で動かなくなっているチビッコを見つめ、僕がつかんでいる細い足首に視線《しせん》を移動し、また僕の顔をじいっと見て、彼女は深々と息を吸い込んだ。 「婦女|暴行《ぼうこう》魔《ま》!」  いや違います、と反論《はんろん》する寸暇《すんか》もなく、彼女の投げつけたローファーが顔面にクリーンヒットして僕はのけぞった。痛みに耐えつつ、いったいこの二人は誰なんだと僕が考えていると、開いたドアから三人目が現れた。  新たに登場した娘は朗らかな笑顔《えがお》で、靴を投擲《とうてき》した長髪少女に、 「巴《ともえ》ちゃん、そうしたの?」  こちらとしては二人で充分ですよと言いたい気分であったが。 「あれ? この人ー」  聞いた声だと思ったら植物|図鑑《ずかん》の娘だった。微笑《ほほえ》みを浮かべて何か言いかけた少女の手から、自転車少女が重そうな辞典をひったくり、僕めがけて投げつけた。 「あろえ! 110番です! 変態男が埜々香《ののか》を手込めに! これは犯罪です!」  空を飛んだハードカバーは狙《ねら》いを外して、ぐったりしていた少女の後頭部に落ちた。 「きゅう」  ちっこい娘は目をナルト巻きにして、がくりと頭《こうべ》を垂《た》れた。 「さあ、あろえ! この狼藉《ろうぜき》者《もの》を取り押さえなさい! そのスキにわたしは近所に助けを求めて参ります! さあ!」  素早く彼女は、あろえなる少女の背後に回ってその背後をぐいぐい押し僕へと向かわせる。 「えー。でもー。この人、たぶんたぶんだけど、博士の孫の人だよ。春からこの家に来るって、この前言ってたよ」 『その通りです』  いったいどこから声がするのかと見たら、下駄《げた》箱《ばこ》の上に置いてある異様な物体が喋《しゃべ》っていた。一抱えほどあるマンガチックな羊のぬいぐるみだ。あちこちパッチだらけで明らかに手《て》縫《ぬ》い丸出しのそいつは、黒目の部分にあるレンズをきゅるりと回転させながら、 『この方はレイプ犯ではなく、博士のお孫さんでおられます。私、見ておりましたが、埜々香さんは自分で勝手に倒れました。危害を加えられたわけではありません。ご安心を』 「ガニメーデス! 埜々香に知らない人間への応対をさせるとこうなると解《わか》っていてさせたのですか!」 『お二人は外出中でありましたし、それに私はちゃんと博士のお孫さんが来ましたよと伝えました。本人も解った、と』 「解っていても無駄《むだ》なのです! 知らない人間と応対するたびに失神するのを、あなたも知っているはずでしょう。それに、本当に何もされていないのでしょうね」 『私としましては、そのようなシーンでもあったほうが楽しめたのではないかと思いますが、残念ながらありませんでした』  すたすた上がり込んで来たあろえが埜々香の脇《わき》にしゃがみこんで、スカートをめくった。 「ガーくんに言ってもダメダメだよ。ほらほら、ちゃんと縞々《しましま》パンツはいているしー、だいじょーぶ」  巴《ともえ》と言うらしいキツめの少女は、まだ僕に疑惑の目を向けていた。 「しかし博士の孫だからと言って暴行《ぼうこう》魔《ま》でないとは限りませんし、パンツはいているからと言って何もされていない保証にはなりません」 『なるほど、さすがは巴さん。では、あろえさん、確認《かくにん》のため埜々香さんのパンツを』 「おやめなさい! あろえ、何を真《ま》に受けているのです。こら、本当に脱がそうとしてどうしますか!」  何だか妙な寸劇《すんげき》が始まったような気分であるが、それよりちょっと待って欲しい。事態がまるで飲み込めない。この三人は誰《だれ》で、おまけにティッシュカバーみたいな羊モドキまで人語《じんご》を話しやがる。ガニメーデス? トロイアの王子が何の用事だ。 『みなさん、いったん移動してはいかがでしょうか。このかたも自らの現実を把握しかねているようですし。ところで私ですが、ハイスペックスーパーデリシャス人工知能、ガニメーデスと申します。別名ナレーターいらず。今後ともよろしくどうぞ』  レンズをウィーンと回して、羊モドキがのたまった。微笑《ほほえ》み少女が図鑑《ずかん》を拾い上げて、 「はーい、あたしは掛川《かけがわ》あろえー、よろしくねー。あろえでいいよー」  笑わないほうの娘は、 「佐々《ささ》巴《ともえ》です。こっとで気絶しているのが三隅《みすみ》埜々香《ののか》。よろしくなどと言いたくはありませんわ。さっさと出て行って欲しい気持ちでいっぱいです」 「……よろしく」  咄嗟《とっさ》にそれだけ答えるのが精一杯だ。僕は混迷の渦を巻き始めた頭を一振りして、 「あの、それでさ、爺《じい》さんはどこ?」 『それにつきましてはご説明する必要がありますね。おいおい解《わか》っていただければと思います。まずは司令室へ案内するのが筋と言えるでしょう』  当然、僕は戸惑う。 「司令室って何だ? 何の司令だ?」  しかし、その問いに直接答えてくれる者は皆無《かいむ》だった。 「お茶入れてくるねー」  あろえはキッチンへと消え、巴はふんと鼻を鳴らし、埜々香の襟首《えりくび》をつかんでずるずる引きずって廊下の奥へと向かった。  ……これはいったい何だろう。大がかりな冗談《じょうだん》の続きだろうか。  大した心構えもなく祖父の屋敷《やしき》を訪れたのに、なぜか爺さんがいなくて代わりに妙な女の子が三人も登場し、ガニメーデスとか名乗るおかしな羊が喋《しゃべ》り出して、とうとう司令室とか言い出した。少女たちはまるで自分の家みたいに振《ふ》る舞《ま》っているし、一人はすぐに気絶してそのままだし、いやもう、本当にどうしたことだとしか言いようもなく、ないものはしかたがないので黙《だま》って立っているしかすべもない。  一人残された僕に、話しかけるのは不気味な羊だけだった。 『どうしました? 博士のお孫さん。すみませんが、私を持って移動していただけますかねぇ。この端末は自律歩行できないのです。ちなみに私の本体は司令室にありまして。よろしくどうぞ』        ☆ ☆ ☆  そんなものがあるとは知らなかったのだが、僕は地下室へ連れて行かれた。確《たし》かに司令室だ。ドアにそう書いてある。入ってみて、また僕は驚《おどろ》いた。 「なんだこりゃ」  壁《かべ》一面にモニタースクリーンと、赤とか青とかのランプがピカピカ光っているコンソール、おまけに巨大なオープンリールを回している時代|錯誤《さくご》なコンピュータみたいな物体まで鎮座《ちんざ》していた。これが喋《しゃべ》るぬいぐるみの本体か? なんだか世界征服を企《たくら》む組織《そしき》のアジトみたいだ。  部屋中央に年代物の応接セットが置いてあり、僕はソファに腰掛けて、あろえが持ってきた番茶をすすった。  この春で巴《ともえ》が高一、あろえが中二、埜々香《ののか》が中一になるということと、三人とも同じ女子校のそれぞれ高等部と中等部に通うことが解《わか》った程度の簡単《かんたん》な自己紹介の後、僕の横にちょこんと置かれているガニメーデスがいきなり言った。 『あー、単刀直入に言いましてですね、博士は現在、この世にはおられません』  吹きそうになった番茶を大急ぎで飲み下し、 「死んだのか!」 『いえ、正確《せいかく》に言うとこの時空連続体におられないだけで、どこか別の次元空間にて生存しているであろうと推測されます』  そんな推察をされてもこちらは困るだけだ。 「さっぱりわからないけど」 『三日ほど前でしたか、とある実験《じっけん》中《ちゅう》にですね、とある装置が暴走《ぼうそう》しちゃいまして。研究室が大《だい》爆発《ばくはつ》、以来、博士はどことも知れぬ空間をさまよっていらっしゃるようです』 「やっぱりわからない」 『そうでしょうね』  説明する気がないのか、簡素《かんそ》な返答を寄こす羊に僕は視線を落とした。 「今年の正月に来たときはこんな部屋も、この娘《こ》たちも、ついでにお前もいなかったぞ」 『無理もありませんな。博士に作られて以来、私はまだ二ヵ月半ほどですので』 「あたしたちが来たのも、そんくらいだよ。そだったよね、ガーくん」  胸の前で盆を抱きしめたあろえが、僕の向かいで嬉《うれ》しそうに笑っている。その隣《となり》では仏頂面《ぶっちょうづら》の巴が番茶の入ったティーカップを傾けていた。埜々香は二人がけのソファに寝かされていて、まだ失神から醒《さ》めていない。 『解りやすく言いますとですね、世界は今、危急存亡の縁《ふち》に立たされています。そしてその危機《きき》に対応できるのは、このお嬢様《じょうさま》がただけなのです。つまりそれが彼女たちがここにいる理由です。お解りいただけたでしょうか』  それで解《わか》る人間がいたとしたら、そいつは洞察力か想像力か妄想力を競《きそ》うオリンピックで金メダルを取れるだろう。  巴《ともえ》がしみじみとした口調《くちょう》で、 「思えば割のいいアルバイトがあるから来ないかと博士に声をかけられたのが運のつきでしたわ。確《たし》かにお給金はよいのですけど」  あろえは初めて聞いたというような顔をして、 「あれ、そうだったの? あたしは正義の味方をやらないかって誘われたよ。面白《おもしろ》そうだったからいいかなーって」  僕は道ばたで少女たちに声をかけて回っている爺《じい》さんの姿を想像して鬱《うつ》になった。ただでさえ奇行で知られているのに、そこに少女|趣味《しゅみ》まで加わっては孫として往来を歩きにくくなること請《う》け合《あ》いである。 「ええっとだな……」  ようするに、世界の危機《きき》を救うために爺さんは彼女たちを集め、そしてこの館《やかた》を根城に何かやっていると——。何を?  僕が無言で腕組みをしていると、ガニメーデスが口を出した。 『現在、世界は、つまり我々のいるこの時空間は他次元侵略体からの侵略を受けています。このお嬢様《じょうさま》がたは、それらの侵略者に対抗できる唯一の希望、世界の救世主、現代の美しきアテナたちなのです!』  合成者に妙な感情がこもり始めた。 「美しき、だって。あはは、巴ちゃん、あたし美しい?」 「わたしが美しいのは客観《きゃっかん》的《てき》事実ですが、あろえの場合は別の形容詞が適当でしょう。そうですわね、極楽能天気ではいかがです?」 「それ、褒《ほ》めてるー?」 「……侵略だって?」  僕は呟《つぶや》く。初耳以前の問題だ。信じがたい。 「いつから?」 『約三ヶ月前からですね。博士が、とある実験《じっけん》中《ちゅう》にうっかり次元に亀裂《きれつ》を入れてしまったようでして。それからどこか余所《よそ》の次元から妙チクリンなモノがこちらに漏れて来るようになったと、そういう話です』  正月に見たナントカ装置のことを僕は思い出した。スイッチを入れてもうんともすんとも言わなかったオブジェみたいな変な機械《きかい》。あれのせいか。 「放っておいたらどうだ?」 『他次元侵略体、博士は「evil・ones・species」、通称EOSと呼んでおられましたが、それらは時間の二乗に比例して拡大することが確認《かくにん》されています。放置しておけば、遠からず地球はEOSに飲み込まれることになるでしょう』 「へー、そうだったんだー」と、あろえ。 「あなた、今まで知らずに戦っていたのですか? 呆《あき》れますわね」と、巴《ともえ》。  二人を横目に、僕は羊に問いかける。 「しかし、そんな得体《えたい》の知れないものをどうやってやっつけるんだ? それでもって、なぜこの娘《こ》たちなんだよ」 『いい質問です。しかし一度に答えるには少々時間がかかりますし、なおかつたった今、タイミング良く緊急《きんきゅう》事態が発生しました』  天井《てんじょう》の赤色回転灯がわざとらしく回り始めて、警報《けいほう》チックなSEが司令室を満たす。 『カサンドラシステムがEOSの出現を警告しています。時刻は現在よりプラスマイナス三十分の範囲《はんい》』  壁《かべ》一面を埋めるモニタが切り替わり、周辺地図が表示される。その一点がピコピコと点滅していた。何に対しても睨《にら》む目をしている巴が、 「あろえ、埜々香《ののか》を起こしなさい」 「ののちゃーん、出番だよー」  あろえはうなされるような顔で目を閉じている埜々香の小さな鼻をつまんで頬《ほお》をぺちぺちと叩《たた》いた。 「……うく……むぐぐ……ぷひゃっ」  しゃっくりじみた息を吐いて埜々香は身を起こし、きょときょとと辺りを見回して、僕がここにいるのを発見して飛び上がったのち、 「あの……その……な……」  小さな身体《からだ》をますます小さくして、真《ま》っ赤《か》になってうつむいた。 「ののちゃん、この人は博士の孫の人だよ。怪しくないよ。んん? ひょっとして怖がってるんじゃなくて照れてるの? ん?」 「そんなことはどうでもいいのです。二人とも急ぎなさい」  颯爽《さっそう》と立ち上がった巴は部屋を横断し、隣《となり》の部屋へ続いているらしいドアを開けて、 「決してこちらを覗《のぞ》いたりしてはいけません。いいですわね?」  恩返しに来た鶴《つる》のようなことを言い、埜々香があろえに引っ張られるように向こうの部屋へヨタヨタと吸い込まれ、最後に巴が僕を一睨みしてドアが閉まった。 『ぐへへへへ……』  どこかで低い笑い声が聞こえると思ったら、その声は羊から漏れているのだった。 『あっちの部屋で三人が何しているか気になりはしませんか? いやいや皆までおっしゃらなくても結構です。ええ当然そうでしょう。いやいや、そこまで言われては人間に忠実たるAIとしては逆らえませんな。いいでしょう、お見せしましょう』  勝手にまくしたてた後、壁面《へきめん》モニタの映像が切り替わるのを見て、僕はソファからずり落ちそうになった。更衣室のような印象のその部屋は、まさしく更衣室に他《ほか》ならないようで、そこであの三人は三人とも着替えの真っ最中であって、ようするに半裸だ。  上から見下ろす映像を映していた大画面が十六分割され、様々な角度から彼女たちのあられもない姿を垂れ流し始める。イラレコンピュータは人間以上に人間くさく笑った。 『どうですか、素晴《すば》らしいでしょう? 素晴らしいですね? これらのマイクロカメラは実に直径五ミリもありませんが、ピント合わせから角度|調整《ちょうせい》から解像度まで完璧《かんぺき》です。この私がコントロールしているのですから間違いはありません』  何に間違いがあるかとすれば、それはこの盗撮《とうさつ》同然の行為をこそ問題視すべきだろう。 「こりゃいったい何のつもりだ」 『私の役割の一つは、彼女たちの健康状態を常にモニタして異常がないかを観察するというものなのです。これがそれに相当するのは、見たら解《わか》るでしょう!』 「ただの覗《のぞ》き行為にしか見えないけど」 『何と言うことを! あなたは彼女たちの美しさを理解しないのですか! ご覧《らん》なさい、三人三様の造形美、まさに地上に舞《ま》い降りた極上の妖精、神話のミューズたちも裸足《はだし》で逃げ出す光景ではないですか!』 「まさか、この館《やかた》の中は隠しカメラだらけなんじゃ……」 『隠しカメラとは人聞きの悪い。状況把握システムと言ってください』  コンピュータ野郎はだんだん興奮《こうふん》口調《くちょう》で、 『ほらほら、あろえさんなんか見事に着やせするタイプであるというのがよく解りますな。首筋から肩にかけてのまろみがもう堪《たま》りません。おおう、そんなに前《まえ》屈《かが》みになられると……、私、CPUが焼き切れそうです! 巴《ともえ》さんの冴《さ》え冴《ざ》えとした美貌《びぼう》と官能的なプロポーションのマッチングなどこれは造物主の芸術品としか思えません! おお神よ。あなたはいい仕事をしました!』  分割された映像の一つ、俯瞰《ふかん》でのバストショットで撮《と》られているあろえが「ん?」というような顔になってこっちを向いた。なぜか白い歯を見せて微笑《ほほえ》み、片目を閉じる。気づかれてるんじゃないのか? 『埜々香《ののか》さんもまた素晴らしい! 一見真っ平らですがここだけの話し、先月比で三・五センチも胸囲が増しておりまして、いやもうこれからの成長が楽しみでなりません。私としましてはこのまま成長せずにいてもらいたい気持ちも多少ありますが、彼女のためにもそれは心で思うだけにしておきましょう!』 「このエロコンピュータめ」 『エロ? エロと言いましたか? 否! 否です! これはラブです! 美しいものを美しいと言って何が悪いのです! 私のメモリ占有空間は彼女たちの愛ある映像でパンパンです! 画像に動画に音声データとなんでもござれです。あまりの愛らしさに転げ回るやつがたっぷりつまっています!』  下着姿の三人がロッカーから何かを取り出そうとした場面で映像がストップモーション、 『思うのですが、最初から最後までつまびらかにしてしまうのは面白《おもしろ》くありません。どうぞ存分に妄想してみてください。今、隣《となり》の部屋では何が行われているのでしょうか。ああっ! まさか巴《ともえ》さんがそんな所までっ!』  いびつな羊は目玉をぐるぐる回しながら歪《ゆが》んだ声で絶叫し、 『私が現在最も入手したいデータが何か解《わか》りますか? そう、私は彼女たちの体表面における弾力性に非常なる興味《きょうみ》があるのです。ぜひその観測《かんそく》データを数値化してみたい! あなた、彼女たちの胸を揉《も》んでみて、その感覚を私に教えていただけないでしょうか?」 「できるかい!」  僕はヘチャムクレの羊人形の首をベアハッグで持ち上げた。 『感圧グローブをつけて揉みしだくなどしてくれるとたいへん助かるのですが』 「性犯罪者になるつもりはないね」 『巴さんなら確《たし》かに物も言わずにぶちのめされそうですが、案外あろえさんは承諾《しょうだく》してくれそうな気がしますし、埜々香《ののか》さんは言った途端《とたん》に卒倒するでしょうからそのスキに』  そんなことしてたら混じりっけなしの変態、疑いようもない変質者だ。 「とにかく、断る」 『あ、そんな冷静な顔してて、意外に乗り気になったでしょう? 体温が0・5℃ほど上昇しましたよ』 「うるさいな。耳を引きちぎるぞ」 『なんてことを! この外観はあろえさんが手ずから縫《ぬ》ってくれたものなのですよ! ……おっと、それはともかく、着替えも終了しそうですし映像を切り替えます。くれぐれもこのことは内密に。ああ見えて案外|勘《かん》のいい人たちばかりなので』  ふっと大画面モニタがまた地図へと変化した。ピコピコがマップの真ん中で瞬《またた》いている。  次元侵略? EOS? でもって、戦う少女たち? この世はいったいどうなってしまったんだ? それともどうかしているのは俺の頭か。  混乱|魔法《まほう》をかけられ右往左往するノンプレーヤーキャラになった気分で、僕は頭の上の回転灯を眺《ながめ》めた。        ☆ ☆ ☆  ややあってドアが開き、僕はなぜ彼女たちが服を脱いでいたのか納得した。着替えるためには服を脱ぐ必要がある。当たり前と言えば当たり前だが、三人ともが新たに身につけた衣装はまったく全然、当たり前な服とは言えなかった。  なにこれ? 『イカしたコスチュームでしょう! 私がデザインしたのですよ。古今東西の戦う少女たちのイメージデータをネットの海から漁《あさ》って抽出し、いいところだけを合成して作り上げた、パーフェクトなコスチュームデザインです! どの角度から見てもクラリとすること確実《かくじつ》の自画《じが》自賛《じさん》ものですな!』 「どこの店にバイトに行くんだ?」  巴《ともえ》に睨《にら》まれた。 『私が気を使ったのはいかに身体《からだ》のラインを美しく見せるかというその一点でして、これは立体空間シミュレーションを何万回となく繰《く》り返し最後まで悩み抜きましたが、その甲斐《かい》あって満足いくできばえのものが完成したと自負しております』 「ふふ、とてもとても可愛《かわい》いでしょう。ね? (くるりと一回転)ね? (くるり)」  得意げなあろえの笑顔《えがお》に、僕は曖昧《あいまい》にうなずいた。その格好をすることに何か意味があるのか、あるとするならばそれはいかなる理由によるものかを尋ねたかったが、恥ずかしそうにもじもじしているのは埜々香《ののか》だけで、他《ほか》の二人はむしろ胸を張らんばかりに己《おのれ》の衣装を気に入っているようだ。実際、三人ともとにかく異常に似合っていた。 「何をそんなにジロジロと見ているのです。いやらしい」  巴が目を険しくし、埜々香はうつむいて一言、 「……あう……」  ボタンの付いた丈の短いワンピース、肘《ひじ》上と膝《ひざ》上から軽そうな素材の布地が彼女たちの手足を覆《おお》っている。何の役割を果たすものなのか、首の後ろからマフラー状の帯が生《は》えていた。どことなく未来的感覚を抱かせる格好だが、それにしては全員が妙に現実的な物を携えているのが場違いだ。  あろえはA3サイズのスケッチブックを大切そうに抱え、巴はあちこち毛羽立った使い古した竹刀《しない》をひっさげ、埜々香に至っては彼女が学校で使っていると思《おぼ》しきアルトリコーダーを身体《からだ》の前で握りしめていた。何に使うんだろう。 『では皆さん、出発しましょうか』  と羊が言い、あろえが返事をする。 「はあい」  ぞろぞろと出口に向かって歩き出したところで、巴が足を止めて振り返る。 「なにをボサッとしているのですか。あなたも行くのですよ」 「え? 何で?」と僕。 「博士がいずこかへと消えてしまった以上、ここにいる関係者はあなたしかいないではありませんか。わたしたちだけで行くわけには参りません」  でも僕が行っても何の役にも立たないと思うんだけど。だいたい何とどうやって戦うのかも知らされていないのだ。ついでに言うと、コスプレ三人組に混じって行動するところを近隣《きんりん》の人々にあまり見られたくないような気もしている。 「ねー、一緒《いっしょ》に来てよ。ののちゃんもそうして欲しいって」  あろえは背後から埜々香《ののか》の肩をつかんで揺さぶった。 「あうあう」  がっくんがっくん首を揺らす埜々香。 「行こうよ行こうよ」 『私のこの端末も連れて行って下さい。役に立ちますよ』  微笑《ほほえ》むあろえに手を取られて、ついでにガニメーデスをぶら下げて、僕は競歩《きょうほ》と徒歩の中間くらいの足並みで司令室——もうそれでいいや——を後にした。        ☆ ☆ ☆  外に出るとすでに陽《ひ》は落ちていて門柱と玄関の間に白いセダンが停《と》まっていた。館《やかた》同様に古ぼけた車は見覚えがある。爺《じい》さんの年代物だ。いつ見てもよくこれで車検を通ったなと感心するシロモノだが、爺さんのことだ、車検になど出していない可能性もある。というより、誰《だれ》が乗ってきたんだ?  あろえと埜々香が後部座席、巴《ともえ》が助手席に収まり、仕方がなく僕はガニメーデスを抱いたまま運転席に乗り込んだ。ってことは僕がドライバーか。果たして無免許運転することになるのかと恐れていると、 『ご安心を。私が遠隔|操作《そうさ》で運転します。実はこの車にも端末が埋め込まれているのです。シートベルトをどうぞ』  実はそんなことではないかと思っていた。  すでにアイドリング状態だった車のギアが勝手に入り、砂塵《さじん》を巻き散らしながら急発進、坂を猛スピードで下り降りた。後部座席で埜々香が「ひい」と小さい悲鳴を上げる。十秒ほどの間にギアがトップに叩《たた》き込まれ、夜のとばりが落ちが住宅街をガニ車が疾走する。  タイヤを軋《きし》ませ、横Gで搭乗者を揺らしながら四輪《よんりん》ドリフトで交差点を曲がった。シートベルトをしていても隣《となり》の巴に肩が当たりそうになる。  バックミラーをうかがうと埜々香はすでに顔を青ざめさせていて、あろえが手動で窓を開けてやっている。もしこれでパトカーに止められるようなことになると僕の責任になるのか? と思っていたら、重要なことに考えが至った。 「なあ、おい。何かと戦うんであれば、それはこの娘《こ》たちみたいなのではなくて、警察《けいさつ》とか自衛《じえい》隊《たい》の仕事じゃないか?」 『早い話が、EOSには物理|攻撃《こうげき》が一切通用しないので、鉄砲やミサイルを持ってきても無価値であるということですな。奴《やつ》らを一掃できるのは、ご覧《らん》あれ、彼女たちの携えるミラクルアイテムだけなのですよ』 「この娘《こ》たちにさせる必要性がどこにある」 『大ありです。EOSの侵攻は博士の実験《じっけん》失敗から始まったわけですが、その際に次元断層から漏れた解析不能のエネルギー塊が幾つか飛び出してきましてね。どこに飛び去ったのかと調《しら》べてみたら、お三人さんたちが当時たまたま手にしていた持ち物に宿っていました。なぜそんな物に宿りたかったのか、私には解《わか》ります。それらのエネルギー塊も美しいお嬢《じょう》さんの手で撫《な》でさすってもらいたいと考えたに相違ありません。私なら迷わずそう考えます。ううむ、そうされたい! そうされるべきなのです!』  また始まった。巴《ともえ》はバカバカしいと言いたげな顔でむっつりとそっぽを向き、埜々香《ののか》は車が揺れるたびに「うにゅ」とか「ひふ」とか言っている。  あろえがシートの間から手を伸ばして、羊モドキを取り上げて膝《ひざ》に乗せた。 「そんくらいしてあげるよ。ほらほら、なでなで〜」 『うひょほ! 素晴《すば》らしい手つきです! しかし残念なことに、この端末には感圧|機能《きのう》がないのです! 触れられても感じないというこの悲劇《ひげき》! 博士、私はあなたを恨みます!』 「それはいいから」 『失礼。どこまで言いました? ああ、そう、つまりですね。理屈はまったく解りませんが、それぞれの器物に憑依《ひょうい》したエネルギーをコントロールできるのは、たまたまそれを手にして いた当人だけなのです。すなわち、ここにおられるお嬢様がたです。ゆえに彼女たちは戦うのです。そう、世界のために!』  感情回路を破壊《はかい》してやりたい。 『というわけでしてね、我々は政府の、公認と同じ意味を持つ黙認《もくにん》を得ています。どうぞ大手《おおで》を振って道を歩いてください』  言われなくても道くらいは手を振って歩くさ。一般人として当然の権利《けんり》だ。 『EOSはこちらより遥《はる》かに高次元から来ているようなので我々は防戦一方ですが、唯一の救いは、この三次元空間に出てくる限り相手もまた三次元的存在でしか実体化できない点です』 「よくそれで勝ち目があるもんだ」 『博士は次元の亀裂《きれつ》を閉じるための装置を開発しようとしていたのですが、その失敗でドカンといっちゃいました。ですのであなたには博士の代役として彼女たちの指揮をお願いします。わしに何かあれば孫に頼め、と博士も言っておられましたし』  巴が横から口を挟んだ。 「指揮など不要です。それよりも必要なのは現場責任者なのです。あろえの頭の中は常に春ですし、埜々香は重度の対人恐怖症、かと言ってわたしが監督《かんとく》責任を問われるいわれもなく、あなたの存在意義もそこにあるという仕組みです。何かあったときには責任をとってください」  そんなことで僕は車に乗せられたのか。  憮然《ぶぜん》とする僕の真横から、あろえがにょっきりと首を出して言った。 「うふうふ。よろしくだよー」  邪気のない声をシート越しに聞きながら、僕は呆《あき》れていいものか怒るべきなのか悩んでいた。 『そろそろ到着です。準備どうぞ。特に心の』        ☆ ☆ ☆  玉砂利を盛大にぶちまけつつ、車は神社の境内《けいだい》に乗り上げた。罰当たりにもほどがあるが、どうも無人の神社らしく神主《かんぬし》が抗議《こうぎ》に出てくることもなかった。  弱々しい灯《あか》りの街灯が一つあるだけで、境内は暗闇《くらやみ》に閉ざされている。その闇を車のヘッドライトが切り裂いて停止する。  止まった車から僕たちは降り立った。四月上旬の夜はやはりまだ涼しい。  降りるなり埜々香《ののか》がうずくまった。その背中をあろえがさすってやっているが、効果のほどは薄《うす》そうだ。 「ののちゃん、だいじょうぶ? ゲロゲロする?」  埜々香はふるふると首を振り、見るからに辛《つら》そうな顔でふらふらと立ち上がった。 『なにぶん、時間との勝負ですので、少々運転が荒くなるのはご容赦を』  僕は改めて三人の姿を見回した。巴《ともえ》は真《ま》っ直《す》ぐな視線《しせん》を鳥居の向こうに向けて決戦に備え、あろえは慈愛に満ちた微笑《ほほえ》みを浮かべて揺れている埜々香の身体《からだ》を支えてやっている。僕の視線に気付いたあろえが、片目を閉じて埜々香に見えないように右手を挙げ、小さな頭の上で撫《な》でるような仕草《しぐさ》をした。どうやら慰《なぐさ》めてやってくれと伝えたいらしい。  寄り添って佇《たたず》む二人に近づく、あろえは眼を細めて、埜々香はあからさまにビクリとした。 「乗り物酔いは直った?」  そう話しかけると埜々香はゴボウのように直立し、酸欠に陥った金魚のように口をパクパクさせて、 「あ……だ……で……」  意味不明なことを物凄《ものすご》い小声で言う。聞き取ろうと顔を寄せると、埜々香はぐるぐる目を回し始め、それが単に目が泳いでいるだけだと気づくのにしばらくかかった。 「大丈夫です、だって」  あろえが通訳してくれた。埜々香は額《にたい》に汗を滲《にじ》ませ、真《ま》っ赤《か》になりながら首をがくがく。 「ののちゃん他《ほか》に何か言うことある?」 「あの……その……(ごにょごにょ)……何でもないです……」  うつむきつつ上目遣いで目を泳がせるという器用なことをする。じっと見ていると、埜々香はますます縮《ちぢ》こまって、終《しま》いには目にうっすらと涙まで浮かべた。そんな大《おお》袈裟《げさ》な。 「さっきは気絶してごめんなさいって。うふふっ、ののちゃん、かわいー」 「あわ……ち……いえ……その」  今にも卒倒しそうだ。巴《ともえ》が呆《あき》れたように、 「コントはそのへんにしておいてくださいませ。お出ましですわ」  真っ暗な境内《けいだい》の真ん中に、ピンク色の靄《もや》が立ちこめ始めていた。なぜ真っ暗なのにそれが解《わか》るかと言うと、その靄自体が発光していたからだ。 「二人とも、Dマニューバを起動しなさい。さくさく終わらせて帰るのです」 「ドキドキだねー」 「あわわわ……」  あろえと埜々香《ののか》は片手を胸の前に当て、衣装の一番上のボタンに触れた。すると蜂《はち》の羽音のようなプーンという音がして、少女たちの身体《からだ》、コスチュームや手にした道具までが青白く仄《ほの》暗《ぐら》い燐光《りんこう》で包まれた。 「では推して参りましょう」  すでに光をまとわりつかせていた巴が二人にうなずきかけ、横目で僕をチラリと見てから竹刀《しない》片手に駆け出した。その後をスケッチブックと笛を持った二人の少女が追う。  どうにも現実感がなかった。目に映る奇妙な現象と三人の少女たちの立ち振《ふ》る舞《ま》いは、大抵の現実とはほど遠い地点にある。  発光するピンク色の靄が一ヶ所に収束し始めて、巨大な何かの姿をとろうとしていた。ガニメーデスがのんびり口調《くちょう》で、 『あれがEOSです。正確《せいかく》にはその一形態ですね』  巨大な蛍光ピンクのクラゲ。としか言いようがない。無数の触手を蠢《うごめ》かせ、中を漂う異世界の怪物だ。その胴体の中ほどに赤黒い円盤《えんばん》が回転しているのが透けて見える。 『あなたの知的欲求を叶《かな》えるためにも解説しておきましょう。お嬢様《じょうさま》がたのコスチュームに仕込まれている装置はディメンション・マニューバと言いまして、博士作の対EOS兵器です。アイテムに宿った異次元エネルギーをコントロールし、意志通りに放出する統御体なのです』  僕は車のシートに戻り、フロントガラス越しに戦う少女たちを目で追った。  戦ってるのか? あれは。 『私を介して通信できますよ。彼女たちの首元のバッジが通信《つうしん》機《き》になってますので。良きアドバイスをして差し上げてください。さあ、どうぞ』 「あー……がんばってくれ」  返答は車のスピーカーから聞こえた。 「うん、がんばるねー」と、あろえ。 「もう少しマシなことを言ってください。当たり前すぎます」と、巴。 「あ……(ごにょごにょ)……す」と、埜々香。  しかし、それから三人が始めたことは僕を困惑させるに値した。 「二人とも、戦闘《せんとう》態勢を」  そう宣言して竹刀《しない》を片手に構えた巴《ともえ》はいいとしよう。剣の心得ゼロ丸出しの素人《しろうと》そのものの構えだが、少なくとも戦闘する気構えは伝わってくる。問題は残り二人だ。 「うん、おっけぃ」  あろえはいきなり地面に座り込み、やおらスケッチブックを広げた。右手にちびた鉛筆を持っている。わざわざこんなところまで来て写生大会でもないだろうと思っていたら、本当に絵を描《か》き始めた。 「何をする気だ?」  僕の問いに、あろえは、 「お絵かきだよ」  しかも場所を考慮《こうりょ》していない芸術の時間を開始したのはあろえだけではなかった。  その横で埜々香《ののか》は何度も深呼吸をしてからうつむき加減にリコーダーをくわえ、見ているこっちが緊張《きんちょう》しそうになるおぼつかない手つきで演奏を始めた。  おずおずとした音程の調子《ちょうし》外《はず》れな曲。それが “もしもしかめよ ”であることは相当推理しないと解《わか》らないだろう。可哀想《かわいそう》なくらいヘタクソだ。 「なんだこれは、何をやってるんだ? 学芸会の練習か?」  ガニメーデスが答えた。 『もちろん違います。彼女たちが能力を行使するには色々と準備段階や制限事項があるのですよ』  まず、あろえから行こう。彼女はニコニコ能天気娘にしては真剣な表情で、黙々《もくもく》とスケッチブックに何かを描き込んでいる。 『あろえだんは、あのスケッチブックに絵を書くことで、Dマニューバ <あぐらいあ> が変換した次元エネルギーを実体化させることができます。わっかりやすく言うと、描いた絵を実体化させて敵と戦うのです。ただし表紙を開いて三分以内に描き終えなければならないという条件付き、たとえ絵が完成してなくても、三分経《た》てば自動的に実体化します』  ガニメデの言うとおり、せっせと腕を動かしていたあろえが、 「わあ、まだまだ、ちょっとちょっと待ってよー」  と言うのもおかまいなく、スケッチブックが発光した。マリンブルーの輝《かがや》きに覆《おお》われ飲み込まれたA3型の光の源は形をむくむくと変化させ、やがて光が収まったとき、あろえの右手に握られていたのは——すまない、やはり解らない。  二メートルくらいの棒状の先に大きな四角の板がついている。板はどうやら網目《あみめ》状《じょう》になっているようだ。えらくイビツだが、テニスというスポーツをまったく知らない職人《しょくにん》が伝聞情報だけを頼りにラケットを作り上げたとしたら、きっとこんなふうになるだろう。 『私の高度な演算処理能力で推定するに……あれは、ハエ叩《たた》きのようですな』 「そだよ」  こっちを向いてその巨大な自称ハエ叩《たた》きを振って見せたあろえは、自分の身長よりも長いそいつでウネくる触手をぶっ叩いた。 「えいえい」  青白いスパークが走り、奇怪な物体の触手の一部が消し飛んだ。なにしろ相手のガタイがデカいので、振れば当たるといった具合だ。EOSの触手群は次々とあろえの手にかかって閃光《せんこう》と共に消えていく。  僕は次に埜々香《ののか》へ目を転じた。  彼女の頭の上に三つの光点が出現している。目をこらしてよく見ると、それらは犬の形をしているようだ。大きさはチワワくらい。赤、青、黄と微妙に色が違っていた。リコーダーの曲に合わせて動いているかというとそうでもなく、人魂《ひとだま》みたいにただフラフラしている。ガニメーデスの解説、 『埜々香さんの <へてか> は、あのようにアルトリコーダーで任意の曲を演奏している間だけは発動します。能力の具現化したものが犬の形状をしている理由は、たぶん彼女が犬好きだからでしょう。あれを操作《そうさ》して攻撃《こうげき》するわけですな。ちなみに三匹には名前を付けておりまして、赤・青・黄の順で <すきゅら> <らいらぷす> <けるべろす> なんですが。あろえさんがつけたコロスケ、山田《やまだ》さん、八幡《はちまん》太郎《たろう》よりはいいと思いませんか?』  どっちでもいい。  しかし埜々香の操《あやつ》る幽霊《ゆうれい》みたいな犬ども、赤い奴《やつ》はただ空中を無意味に飛び回り、青は埜々香の頭の上から動かず、黄色はべたりと地面に落っこちてじっとうずくまっていた。 『単なるエネルギー体のくせになかなか言うことを聞いてくれないようでして。いや、埜々香さんは必死にやっているんですよ?』  夜の神社、半泣きの表情で縦《たて》笛《ぶえ》を演奏するチビッこい変な衣装の少女の姿は、シュールを通り越してもはや幻想の世界である。  埜々香の鬼火、その三つの光る犬たちは、ようやく職業《しょくぎょう》意識《いしき》に目覚めたのか、てんでバラバラな動きで宙に舞《ま》い上がった。操作者の心情を思わせる頼りない動きで無秩序に空を踊り、偶然、動き回る触手にぶつかっては閃光を発し、ピンクの物体を削り取っている。  一心不乱にリコーダーを吹いていた埜々香が息継ぎのために演奏を止《や》めると、小型犬の幽霊《ゆうれい》みたいな三匹もスウっと消えていき、慌てて埜々香は笛吹少女に戻った。三つの光点が再び彼女を囲う。 『便利な能力だと思うんですけどね。三頭を同時に操《あやつ》るのは困難《こんなん》なようでして。狙《ねら》ったところに当たったためしはありません』  それでは役に立たないような気がするが。  その間、巴《ともえ》が何をしていたか。真《ま》っ直《す》ぐに伸ばして竹刀《しない》を構えていた。ずっと構えていた。そして眉間《みけん》にシワを寄せてぶつぶつと呟《つぶや》いていた。 『巴《ともえ》さんの <えりす> が一番|解《わか》りやすい能力です。間もなくエネルギーチャージが終わると思いますので、すぐ解りますよ』  その言葉が終わるか終わらないかのところで巴はくわっと目を見開き、大《だ》音声《おんじょう》で、 「超必殺円月殺法|滅多《めった》ザクザク斬《ぎ》り!」  そう叫びつつ竹刀《しない》を振ると、剣先から凄《すさ》まじい勢いで虹色《にじいろ》の光が放射された。光の奔流が桃色の巨体に届き、EOSはバチバチと火花を上げて分解していく。どのへんが円月殺法でザクザク斬りなのかさっぱりだが、多大な効果を上げていることだけは解った。一撃《いちげき》で半数以上の触手が空中からかき消えている。 『技の名前は何でもいいのですが、強そうな名が付いていれば付いているほど破壊《はかい》力《りょく》も向上します。ただし、いったんああやって放出すると、次の技を繰《く》り出すまで三分程度チャージが必要なのと、一度使用した技の名前を再利用できないことになっているのが玉《たま》に瑕《きず》ですな。あなたもヒマなときに一緒《いっしょ》に考えて差し上げると喜ばれますよ』  すぐさま巴の通信が入った。 「わたしはそんなことでは喜びを感じるほど単純な人間ではありません。自分の使用する技の名前くらい、自分で考えますわ。それがオリジナリティというものです」  円月殺法のどこにオリジナリティがあるのだろう。  残存していた触手が巴に向かって飛び込んでくるのを、彼女は面倒《めんどう》くさそうに竹刀で払いのけた。青い燐光《りんこう》をまとわりつかせていることろを見ると、完全に素の竹刀に戻ったわけではなさそうだ。 『あろえさんが前衛《ぜんえい》で埜々香《ののか》さんが後衛、巴さんが一撃必殺と、まあまあバランスが取れているでしょう? 問題はEOSだってやられっぱなしにはなっていないということですが』  旋回していたEOSの一部が急降下してあろえに体当たりを敢行した。 「わわっ、と」  間一髪であろえはそいつを迎え撃《う》つ。ハエ叩きを直撃したEOSは弾《はじ》き返され、ピンク色を明滅させながら落下、地上にたどり着く前に消える。 『EOSは基本的にこちらが攻撃するまで何もしません。ただ拡大していくだけです。EOSが有機《ゆうき》体《たい》なのか無機物なのかは不明ですが、簡単《かんたん》な防衛機構と自己修復機能はあるようでして、何らかの作用を加えると必ず反発力を働かせます。つまり攻撃するものを排除しようとして反撃してくるのです。なに、私とあなたは安全です。ここでじっとしていれば襲《おそ》われることはありません』 「すると何か、僕はここで戦況を眺めているくらいしかできないのか?」 『そうです。退屈なようでしたら、戦術でも考えて指導《しどう》してあげてはいかがですが』 「だったらお前が指揮しろよ。超々高度コンピュータなんだろうが」 『お断りします。戦術指南などという無粋な思考行動はノーラッドあたりのスパコンにでもやらせておけばいいのです。私はもっともっと崇高で高尚な論理《ろんり》的《てき》演算処理にしか興味《きょうみ》がありません』 「着替えの盗撮《とうさつ》がお前の言う高尚な演算処理か?」 『ああ! イエス、オフコース! それもまたその一つですな』  リビドー全開のAIとのんびり話している状況ではないような気もする。  巴《ともえ》が竹刀《しない》を振り回してピンク色の攻撃《こうげき》を弾《はじ》き、埜々香《ののか》の犬たちが迷走しつつもあちこちで火花を散らし、あろえが「腕が疲れた疲れたよー」と言いながらハエ叩《たた》きを振り回している。 「なあ、EOSってのはいつもこんなのなのか?」 『前回はピンク色の巨大ミミズで、その前はピンク色の巨大アメーバでした』 「なんだか際限なく湧《わ》き出てきてるような……」 『あの触手はザコキャラですね。いわばスライムです。ボスを倒さないとゲームクリアとはいきませんな。そろそろ出る頃《ころ》です』  見ていると、空中を舞《ま》っていた触手たちが一ヶ所に集合を始めていた。境内《けいだい》の中央、ピンククラゲの親玉がいる辺《あた》り。変形している。立体パズルのように組み合わさった胡乱《うろん》な物体が一つの巨大な球体となって音もなく地面に落ちる。まるでミラーボールだ。しかし直径は五メートルほどもある。球体を構成するさっきまでクラゲだったEOS、その内部で回転していた赤い円盤《えんばん》がすっと消えた、かと思うと巨大ミラーボールの真ん中に一際でかい円盤が発生して輝《かがや》いた。 『あの本体中央で回っている円盤が <核> です。あれを破壊《はかい》すればこちらの勝ちです』  ごろり。一体化したEOSが不意に三人娘目指して転がり始めた。 「ひゃああ」  虚をつかれたか、あろえはとっさに逃げた。立ちすくんでいた埜々香を巴が小脇《こわき》に抱えて、その後を追う。頭を後ろにして荷物のように運ばれている埜々香の姿が哀れだ。 「あろえ、逃げてどうします。立ち向かいなさい。そのスキにわたしは安全を確保《かくほ》します」 「ずるいずるいよ。巴ちゃんも逃げてるじゃないよう」 「あわ……あぐ……」  三人は境内を無秩序に逃げまどう。だがガニメーデスは、 『息を切らして走る可憐《かれん》な肢体がイイ! この息使い、録音《ろくおん》しておきます?』  僕は羊の言葉を無視、咳《せき》払《ばら》いしてから、 「あー、言っていいかな? 犬|幽霊《ゆうれい》でそいつの足を止めて、ハエ叩きでひるませて、巴がトドメを刺したらいいんじゃないか?」  一応、提案してみる。  しばしの沈黙《ちんもく》の後、巴が言った。 「……それもそうですわね。埜々香《ののか》、いくらあなたでもあれだけ的が大きければ一つくらい当てられるでしょう。やりなさい」 「はわわ」  ぱくりとリコーダーをくわえた埜々香はぴ〜ひょろと拙《つたな》い演奏を開始、ぽわ、と三つの犬型鬼火が巴《ともえ》に抱えられてぐらぐら揺れる埜々香の頭上に発生、操《あやつ》る必要もなかった。EOSが勝手に赤青黄の犬の群れに突っ込んだ。三連続|爆発《ばくはつ》。目に見えてバケモノのスピードが落ちる。  そこにあろえのハエ叩《たた》きが炸裂《さくれつ》した。 「とぉーりゃー」  ばっちんと音がしてEOSの体表面がざっくりとこそぎ落とされた。瞬間《しゅんかん》、不吉に輝《かがや》く暗赤色 <核> が剥《※む》[#「※」は「剥」の厳密異体字、第3水準1-15-49]き出しになるも即座に再生、すかさず巴は埜々香をポイと投げ捨て、竹刀《しない》を振りかぶって高らかに叫んだ。 「強力|破壊《はかい》卓袱台《ちゃぶだい》返しアタッークっ!」  上段から斬《き》り下ろし一刀、強烈な破壊光が周囲をホワイトアウト、怪物が虹色《にじいろ》の光源に包まれて、回転する <核> に亀裂《きれつ》が走った。八方に走るひび割れがやがて全体を覆《おお》い、そして小気味よい涼やかな音を発して砕け散る。 「しゅーりょー」  ハエ叩きが青い光を発散させつつ縮小《しゅくしょう》していく。光が消えた後、あろえの腕の中には元のスケッチブックが残された。 <核> の破壊と同時に、全体の崩壊も始まっていた。パラパラと剥《※は》[#「※」は「剥」の厳密異体字、第3水準1-15-49]がれ落ちていくピンクの断面。断末魔《だんまつま》のように蛍光ピンクを瞬《またた》かせながら、巨大クラゲは細かい粒子となって分解し、分解した端から溶けるように消えていった。後には何も残されない。  ガニメーデスが言った。 『とまあ、こんな感じで毎回戦っておるわけですな。お解《わか》りいただけました?』  僕は車を降りて、地面に転がったまま動かない埜々香に駆け寄った。抱き起こすと、両手でリコーダーを握りしめたまま人類の原罪を一身に背負ったような顔で気絶していた。 「ののちゃーん。こんなところで寝てたらだめだめだよ。おふとんで寝なきゃ」 「では帰りましょう。長居は無用です。さきほどから空腹を覚えてかないませんわ」  あろえも巴も、なんて事ないような、世界の破滅から救ったばかりとは思えない顔で車に近寄ってきた。  僕は綿《わた》菓子《がし》みたいに軽い埜々香を抱き上げて後部座席に押し込む。 『先ほどのお姫様だっこシーン、なかなか絵になってましたよ。記録《きろく》しておきました。後で埜々香さんにも見せてあげましょう。また卒倒しそうですが』  深々と僕は息を吐いた。なんか疲れた。 「ご飯食べて帰ろー。これから作ってたら夜中になっちゃう」 「あろえにしては良い案です。ですが、お財布がありません。この格好ですもの」  二人はじいっと僕を見つめた。なぜ僕のポケットには財布が入っているのだろう。 「でも、その衣装で店に入るつもり?」 『美しいお嬢様《じょうさま》がたの美しいコスチューム姿を我々だけで独占するのは罪悪ですよ。一般の方々にも広く公開すべきです』 「美しいだって。えへへ」  のんきなあろえののんきな笑い声を背後に聞きながら財布の中身を確認《かくにん》する。はなはだ頼りない数の紙幣《しへい》がちらほら。とりあえず彼女たちがダイエット中であることを、  僕——。  逆《さか》瀬川《せがわ》秀明《ひであき》は、思いつく限りの神様に祈った。 [#挿絵画像 (01_053.jpg)]  第二話 『スピード&サイレンス』  僕が爺《じい》さんの館《やかた》で寝起きするようになって三日目の朝が来た。今日もまた僕を覚醒《かくせい》に導《みちび》いたのは、庭から響《ひび》いてくるラジカセの大音量だった。  ノスタルジーを感じさせる音質の悪いメロディラインに混じって、約一名の愉快そうなかけ声が漏れ聞こえる。僕は布団から這《は》い上がると窓の外を覗《のぞ》いた。 「いっちにー、ぇぃやー」  パジャマ姿のあろえと埜々香《ののか》が雑草|茫々《ぼうぼう》たる庭先でラジオ体操《たいそう》をしている。あろえはニコニコと、埜々香はワタワタと、お馴染《なじ》みの動作で手足を屈伸させていた。  僕が同居している一階のこの和室は現在消息不明となっている爺さんの部屋である。二階の洋間は三人の少女たちによって占領ずみであり、だったら空いている部屋でいいやと言ったものの、 「異性と同じフロアで眠ることなど到底できそうになりません。考えただけで……もう……」  と身をよじった巴《ともえ》の意見により、ここに押し込められたのである。なお、巴はさらにこの部屋に外から南京《なんきん》錠《じょう》を付けることまで提案したが、これはあろえがやんわりと説得してくれたため——(「だいじょうぶだよー。ねっねっ?」うなずく僕。「はら、安心安心」)——なんとか虜囚《りょしゅう》の気分を味合わずにすんだ。その代わり二階への立ち入りは固く禁じられ、ついでに監視《かんし》役《やく》と称するおかしな物体が部屋に置かれることになったのには閉口する。 『おかしな物体とは何でしょうか。それが私を意味するのならば大きな間違いがあなたの認識《にんしき》上《じょう》に存在すると言わざるをえません。かつて何度か申し上げましたがもう一度言いましょう。高性能かつハイスペックかつハイパーマルチタスクな超々高度コンピュータ、その端末であるところの私、ガニメーデスです』 「そんな被《かぶ》り物を着た奴《やつ》に言われても説得力の欠片《かけら》もないね」  僕は布団を畳むついでに電子音声の元を蹴《け》り転がした。一見すれば邪悪な羊のぬいぐるみ、しかしてその実体は邪念の権化《ごんげ》の自称ハイテク人工知能、ガニメーデスはコロコロ部屋の隅に転がりつつ、 『私はこの端末の外観がことのほか気に入っております。なにしろあろえさんの愛が毛先一筋にまで込められているのです。どうですか、この不器用な縫《ぬ》い目や左右非対称の耳、全然長さの揃《そろ》っていない飾りの足など、まるで天空の星座から落ちてきたアリエスの化身のようではないですか!』  枕元《まくらもと》で熱《ねつ》っぽく喋《しゃべ》る羊をつまみ上げ、僕は部屋を出て廊下を進んだ。ラジオ体操《たいそう》の音源である縁側《えんがわ》にたどり着く。穏《おだ》やかな春の陽差《ひざ》しに照らされて、二人の少女がぴょんぴょん飛び跳ねていた。そのうちの一方と目が合うと、笑顔《えがお》をさらに笑わせて、 「おはよぉ」  その横でつたない盆踊りのように手をふらふらさせているチビっこい女の子、埜々香《ののか》は、 「あ、お、お、は……ご」  いきなり手足の動きをぎこちなくさせて口をパクパク。  しばらくぼんやり眺めていると埜々香の動作はどんどんヘタクソになっていき、よく見ると滝のように汗をかいていた。何が埜々香をこうも緊張《きんちょう》させるのだろう。 『まあ普通に考えて、うら若き乙女《おとめ》がパジャマのまま体操している姿を男に眺められて心安らかでいられるとは思えませんからね。無《む》頓着《とんちゃく》なのはあろえさんくらいではないでしょうか。もっとも埜々香さんのはいささか過剰反応ではあるでしょうが』  それなりの面積《めんせき》を誇る庭では、十匹近い猫たちが退屈そうに寝そべりながら二人のラジオ体操を見るともなしに見ていた。  僕が幼い頃《ころ》調子《ちょうし》こいてバンザイダイブした噴水《ふんすい》と人工池はすっかり水も枯れ、水瓶《みずがめ》座《ざ》みたいな石像も酸性雨でドロドロに汚れて見る影《かげ》もない。  最終演目を終え、ラジカセのテープがその使命を全《まっと》うした。あろえはラジカセの電源を止めると、僕に向かって、 「いつでもいいからさー、この噴水《ふんすい》、修理して水出るようにしてあげようよ。ネコにゃんも水飲みができて喜ぶと思うよ」  にっこり笑う。猫などどうでもいいが、この笑顔《えがお》のためになら何とかしてやろうかと思わないでもない。普通に可愛《かわい》い。 「そうだな」 「ぜったいぜったいだよー。ひーくん、約束だよー」  適当な僕の返事に、あろえは喜び百パーセントな笑みで答えて、年代物のラジカセと埜々香《ののか》の手を引いて屋敷《やしき》に引っ込んだ。  ちなみに、ひーくんというのは僕のことであるらしい。「逆《さか》瀬川《せがわ》秀明《ひであき》くん? じゃ、ひーくんだね」と言って、あろえが決めた。念のために確認《かくにん》しておくが、僕の学年は中学二年の彼女より五つほど上になる。  歯を磨《みが》いてから着替えをすまし、ダイニングルームに顔を出すと、とうに女子校の制服を身につけた巴《ともえ》が自分の席をテーブルに確保《かくほ》して、難《むずか》しい顔で新聞を広げていた。社説を読む色白な顔にフレームなしの眼鏡《めがね》が引っかかっていたが、僕に気づくとさり気ない手つきで眼鏡を外して胸ポケットに挿し、 「何か用ですか?」  朝に台所に来て朝飯《あさめし》を食う以外に何かあるというのだろうか。  ちなみにこの三日間で、三人の少女たちに生活能力が皆無《かいむ》であることは承知していた。  今までは爺《じい》さんがいたから何とかやってこられたのだろう。中でも困ったのは全員とも料理の心得がないことである。昨晩もその前も、だから僕が晩飯を作るはめになったのだ。巴は言うだけで何もしないし、埜々香は最初から何もできないし、あろえだけはかろうじて「猫喜び炒飯《チャーハン》」なる具が鰹《かつお》節《ぶし》だけというシンプルな焼き飯なら作れるということだったが、そんな最近の猫ならそっぽを向きそうなものだけでは栄養が偏《かたよ》る。しかたなく僕が冷蔵《れいぞう》庫《こ》に残っていたあり合わせで適当なものを作ったのだが、僕自身、あまり美味《うま》くないと思ったくらいだから、あらかたにおいて不評だった。  僕が骨董《こっとう》品《ひん》のようなコーヒーミルで豆を挽《ひ》いていると、揃《そろ》いの制服に着替えたあろえと埜々香がやって来て、 「あ、それやりたい。がりがり」  バトンタッチしてやる。あろえは嬉《うれ》しそうにミルのレバーをぐるぐる回す。 「ののちゃんもやるこれ? 楽しいよー」  いつまでも回していそうだったのでキリのいいところで止めて、僕はフライパンに卵を割って落とした。  巴《ともえ》が新聞から顔を覗《のぞ》かせ、 「わたしは砂糖《さとう》抜きでミルク多め、埜々香《ののか》の分はあったかいコーヒー牛乳のような感じで。それからトーストは両面共にキツネ色になるまで焼くのがわたしのスタンダードです」  なぜ自分でしない、と思ったが、あろえも埜々香もそれぞれテーブルの自分の席について待っている。どうやらこの数日で料理係は僕の担当に決まったらしい。 『はっきり申しますと』  食卓で飾りのように置かれているガニメーデスが言葉を挟んだ。 『ここいおられますお三方の唯一の欠点が、つまり料理の腕というやつでして、まことに不思議《ふしぎ》なことなのですが、コーヒーを入れると泥水に、食パンは備長《びんちょう》炭《たん》に、目玉焼きは何だかよく解《わか》らない物質に化学変化するという技量の持ち主ですので、博士から厨房《ちゅうぼう》に立つことを厳《げん》に禁じられているのですよ。ご理解ください』 「余計なことは言わなくていいのです!」  巴が二つ折りにした新聞紙をガニメーデスにかぶせて、 「わたしはそんなに酷《ひど》くはありません。あろえや埜々香よりはよほど巧《うま》く作れます!」 『しかし巴さんの製作された、えー、あれは何という料理でしたか。対応する適当な名称が検索できませんので仮に巴スペシャル�7と呼ぶことにしますが、アレを一口食べた博士がこう漏らしたことを私は記憶《きおく》しています。すなわち「これは人類が未《いま》だ到達し得ない未知の味覚である」、と』  あろえが箸《はし》で皿の縁《ふち》を叩《たた》きながら大きな目をくるりと回した。 「ガーくん、ひょっとしてそれ、このまえ巴ちゃんが張り切って作ってた肉じゃがのこと? けっこう美味《おい》しかったよねぇ? ののちゃん」 「う……あ……」  途端《とたん》に埜々香はうつむいて言葉に詰まった。詰まっているのはいつものことなので真意のほどは窺《うかが》い知れないが、単にあろえが味オンチなのではないかと僕は推測する。 『なんほど、アレは肉じゃがと呼ばれる料理だったのですか。確《たし》かに肉とジャガイモを使用していたことだけは私にも理解できましたが、まさかアレがそうだったとは』 「黙《だま》りなさい!」  巴は新聞紙でガニメーデスをぐるぐる巻きにして隣《とな》りに座っていたあろえの手に押しつけた。 「そこであろえに撫《な》でてもらって大人《おとな》しくしているがいいのです!」 「変だなあ、美味しかったけどなあ。焦げ焦げだらけだったけど。ののちゃんは美味しくなかったの?」 「うう……」  埜々香は脂汗を流しながら巴の視線から逃れようと顔を逸《そ》らした。逆手《さかて》に握りしめた箸がカタカタ震《ふる》えている。可哀想《かわいそう》になってきた。  僕はフライパンを持つと、出来上がった目玉焼きを三人の皿の上に移してやった。 「わー」  あろえは目玉焼きのように目を丸くして、 「すごいねー。黄身がちゃんとまん丸だよ。どうやったら潰《つぶ》さずに卵割れるの?」  どうやったらと訊《き》かれても普通に割ったらとしか。巴《ともえ》はまるで毒物の混入を疑うような目で僕の作った卵料理を見つめていたが、躊躇《ちゅうちょ》なくぱくぱく食べ始めたあろえをしばらく観察《かんさつ》し、ようやく箸《はし》をつけた。埜々香《ののか》を見ると、おずおずといった感じで白身の端をちょいちょいとつついて僕を見、さっと視線を逸《そ》らしてまたうつむく。  折良く旧式のトースターが食パンをポンと吐き出して、僕はため息を隠しながら給仕役を再開した。        ☆ ☆ ☆  朝食が終わり、やがて三人は鞄《かばん》を手に玄関に集合した。あろえだけ鞄の他《ほか》に違うものを持っていて、それは食パンだ。 「あ、朝飯足りなかった?」と僕。 「んーん♪」  あろえは重そうな鞄を床に置き、 「一度やってみたかったんだよね。ちこくちこくーって叫びながらパンくわえて走るやつ。せっかくだからやってみようと思って」  何がせっかくなのだろう。それに、物をくわえていたら叫べないのではないだろうか。  しかし自分の発言の矛盾《むじゅん》に気づくこともなく、あろえは食パンを二つに裂いて片方を埜々香に渡した。 「ののちゃん、一緒《いっしょ》にやろ。あ、巴ちゃんもいる?」 「いりません。食材の無駄《むだ》です」  巴は一刀両断し、埜々香は「うう」とか呟《つぶや》きながらパンを握りしめていた。 「じゃあね、ひーくん。いってきまーす」  そう言うとあろえはパンをぱくりとくわえ、埜々香にもくわえさせると、 「ひほふひほふー」  重たそうな鞄と埜々香の手を握りしめて勢いよく走り出し、埜々香は爪先《つまさき》を宙に浮かせて目を回しながら、 「むむぅ」  二人の姿はすぐに見えなくなった。  ぷは、と、息をついたのは巴で、 「朝からどうしてあんなに活発なのでしょう。わたしには考えられません」  妙にババムサいことを言う。 「おまけに、こんなに早めに出ても結局は遅刻するんですわ。あの二人の組み合わせは少々問題です」  僕をじろりと睨《にら》み、 「わたしも出かけますが、わたしたちの部屋への立ち入りは厳禁《げんきん》です。よろしいですね」  ガニメーデスと一緒《いっしょ》にしてもらっては困る。僕に覗《のぞ》きの趣味《しゅみ》はない……つもりだ。 「ちゃんと見張っているのですよ、ガニメーデス。もしもの際にはすぐに連絡なさい」 『承りました。万一、このかたが巴《ともえ》さんの部屋に不法侵入を敢行するようなことがあれば、セキュリティシステムの限りをつくして撃退《げきたい》に当たります!』  こいつだけには言われたくない。巴が優雅《ゆうが》な足取りで出かけた後、案の定、全能力を盗撮《とうさつ》に傾けることを生き甲斐《がい》とする人工知能は、 『で、どうします? 忍び込みます? なんなら支援いたします。鍵《かぎ》ですか? それなら、ほらここに』  角《つの》の下からにゅるりとマニピュレータを伸ばして鍵束を振った。そうくるだろうと思っていたので僕は用意していたセリフを放った。 「別に見たくもないよ。他人の部屋を漁《あさ》る趣味はないさ」 『おやおや。これはまた優等《ゆうとう》生《せい》的無芸の極みのような返答ですね。私はお嬢様《じょうさま》がたの身体《からだ》から発せられた芳香《ほうこう》の立ちこめる部屋で転げ回りたい気分でいっぱいなのですが、この機会《きかい》にぜひ私と一緒に転げ回りましょう。義を見てせざるは勇なきなり、ですよ』 「それのどこが義だ」 『義務と言ってもいいでしょうな。あなたこそ一体何をしているんですか。この数日間、風呂《ふろ》も覗かなければ寝込みも襲《おそ》わない、暗闇《くらやみ》に連れ出そうともしなければセクハラの一つもしないとは、こんなことで今後どうやっていくつもりで?』  どうっつったところで覗きや夜這《よば》いをするわけにもいかない。このエロエロ人工知能と並んで鼻の下を伸ばすのは僕の人格を八割方支配する常識《じょうしき》人《じん》の部分が許さないし、そりゃちょっとは役得めいたことがあるにこしたことはないが……いやいや何を考えているんだ僕は。 『博士もまったくの朴念仁《ぼくねんじん》でしたが、あなた、若いウチからそんなに枯れていては先が思いやられますな。もっと自分の欲望に忠実になるべきかと愚考する次第です』 「勝手に愚考してろ。どこかにすっ飛んで行った爺《じい》さんが戻ってくるまで平穏《へいおん》に食事当番でもしてるさ」 『せっかく私が二十四時間|態勢《たいせい》で録画《ろくが》モードを維持しているというのに、このままでは私の膨大《ぼうだい》なホログラフィックメモリがまるで宝の持ち腐れ、ディープブルーに九九の計算をさせているようなものです』 「円周率を割り切れるところまで計算してろ」  なおもブツブツ言うガニメーデスをヒールキックで廊下の隅に蹴《け》り飛ばし、僕は爺さんの部屋に戻った。僕もそろそろ大学に出かけないといけない。        ☆ ☆ ☆  屋敷《やしき》から出てすぐの坂道を下った所に、あろえと埜々香《ののか》がいた。あろえは道ばたにしゃがみ込んで図鑑《ずかん》を広げ、その背後で埜々香が故障中のロボットのような一歩進んで二歩下がるみたいな動きをしている。  何をしているかと思えば、あろえは道路沿いに生《は》えている雑草と図鑑を熱心に見比べている。彼女たちが出かけていって、すでに三十分以上が経過しているというのにだ。  僕が近づくと埜々香が絞り出すような声で、 「あの……あの……その……」  目を泳がせながら消極的に焦った様子《ようす》。分《ぶ》厚《あつ》い図鑑をぱらーりとめくっているあろえは真剣な顔つきで精神集中している。彼女の前に生えている白い花を僕はなぜか知っていた。 「それさ、春《はる》紫苑《じおん》だよ」 「へ?」  あろえはやっと気づいたように僕を振り返り、大急ぎで図鑑をパラパラすると、納得顔にこぼれんばかりの笑みを広げて、 「わあ。ほんとだ。物知りだねー。ふうん。すごく珍しい花なんでしょ、これ」  春になれば毎年そこら中に咲くことになる雑草である。雑草の名前なんかいちいち調《しら》べないので知名度は薄《うす》いかもしれないが、別に珍しい植物なわけではない。 「それより、時間はいいの?」 「あっあっ」  手首を裏返して腕時計を見たあろえは、 「たいへんたいへんだよ、ののちゃん。ちこくちこくー。走ろ」  パンはとっくに食い終わっていたらしい。あろえは図鑑を鞄《かばん》に両手で詰め込むと、「じゃねー」と言いながら、 「わわわわ……」  埜々香を引きずるようにして走り去った。なるほど、巴《ともえ》の言葉の意味がよく解《わか》るエピソードだ。あろえは興味《きょうみ》を引くものを見るとそっちに意識《いしき》が行ってしまい本来の目的を見失うタチで、埜々香は目的意識はあるものの注意する勇気と発言力がないようだ。確《たし》かに問題のある組み合わせと言える。さらに問題なのは、そのことをちゃんと解っているくせに何の手も打たない巴である。出て行った順番から見て、巴はあろえと埜々香が坂の途中で一旦《いったん》停止している所に通りかかったはずだ。  チームワークがバラバラというか、そんなもん初手《しょて》から存在しない三人らしい。よくこれまで変なバケモノ相手に戦えてたもんだ。        ☆ ☆ ☆  三人と違って僕の通う大学に行くにはバスに乗る必要がる。座席はいくつか空いていたが、遠慮《えんりょ》して吊革《つりかわ》につかまって揺られていると、窓の外の風景に見覚えのあるものが見えたような気がした。 「ん?」  バスは加速の最中で、街並みもあっという間に過ぎ去る中、ちらりと見えたのはカラフルで奇抜な服装の人影《ひとかげ》だ。あろえたちが闘《たたか》いに赴《おもむ》く際に着替えるコスチュームによく似ていた——ようにも見えたが、すぐに視界から消え去る。 「気のせいかな……」  どうも爺《じい》さんの館《やかた》で暮らすようになってから僕の現実感覚は狂わされっぱなしである。とうとう変な幻覚まで見るようになってしまったのだろうか。あの三人の誰《だれ》かが、今頃《いまごろ》こんなバス道であの格好をしているわけがない。いくら記憶《きおく》に残るインパクト大な衣装とは言え、見間違えにもほどがあるガニメーデスの毒が移りかけているのだとしたらヤバイ。  僕は脳に目覚めを促すために側頭部をこづいた。  退屈な大学の講義《こうぎ》を消化しているうちに時間が過ぎた。うつらうつらとしながら五限目の東洋史を受けていると、突然誰かの携帯電話が着メロを流し始めた。曲目はシューベルトの “羊飼いの嘆き歌 ”だ。何となく僕の心境にぴったりの曲だったが、誰だマナーも知らない狼藉《ろうぜき》者《もの》はと思いながら周囲を見渡すと、どうやら他《ほか》の学生たちの視線《しせん》は僕に向いている。おかしいな、僕の携帯電話はこんな曲を流すはずがないし……と思ったところで気が付いた。  発信源は僕の襟《えり》に付いているピンバッジだ。  これと同じ物をあの三人も持っている。爺さんが作製したというふれ込みの通信《つうしん》機《き》である。一昨日《おととい》、僕にも支給されたことを思い出した。  これをくれたのは埜々香《ののか》だった。正確《せいかく》には、あろえが持ってきて埜々香に渡し、さらに僕に渡すように埜々香に言い、埜々香は全身を硬直させながらぶるぶる震《ふる》える手で差し出して、僕が受け取った後に埜々香はどういうわけか気を失って倒れかかり、その身体《からだ》を支えた僕を巴《ともえ》が目を三角にして怒ったのだった。 『常に身につけておいてください。どこにいようとそれで連絡が取れます』  そうガニメーデスが解説していた。周囲の学生と講師が非難《ひなん》の眼差《まなざ》しを僕に向けている。しばらくいじってみたものの、止め方が解《わか》らない。僕は筆記用具を鞄《かばん》に放り込むと、へこへこ頭を下げながら教室の外に出た。その途端《とたん》、まるで見ていたようなタイミングで、 『やあどうも、私、ガニメーデスです。突然ですが、連絡した用事は一つです。カサンドラシステムがEOSの出現を予言しました。というわけでしてね、すぐにお迎えに参上する次第です』 「この前出たとこなのにもう次が来たのか?」 『EOSの出現パターンは放射性原子核の粒子放出なみにランダムですからね。傾向も対策も関係なしです。もちろん、こちらの都合などおかまいなし、遠慮《えんりょ》もありません。そもそも知性の有無《うむ》も確認《かくにん》できてません。館《やかた》を中心とした近隣《きんりん》の町内のみで発生するのが、わずかながらの慰《なぐさ》めですな』 「ところで、迎えって何で来るんだ?」 『車です。実はもうじき到着する予定です。その大学の正門前で待機《たいき》していてください』  僕が学部の校舎から出て大学の敷地《しきち》を横断《おうだん》し、校門前の市道沿いで待つこと数分。  爺さんのオンボロ車がいかにもポンコツな車ふうに走ってきて僕の前に横付けされた。ガニメーデスの操縦《そうじゅう》で動くこの年代物のセダンは、当然無人である。 「この状態でここまで来たのか?」  羊型端末の姿はない。声はカーステレオから響《ひび》いた。 『そりゃそうでしょう。誰《だれ》も運転してくれませんから』  この街で運転手もなしに疾走する幽霊《ゆうれい》車《しゃ》が都市伝説として流布《るふ》されることになるのもそう遠い未来のことではなさそうだ。        ☆ ☆ ☆  交通法規を破ったり無視したりしながら車は館に到着した。 『お帰りなさい。急いで地下室へどうぞ』  下駄《げた》箱《ばこ》の上で羊のぬいぐるみがバッジや車のカーステレオから聞こえていたのと同じ声で喋《しゃべ》る。僕はガニメーデスを持ち上げると、その指示に従って司令室へと降り、それから更衣室への扉を開いた。この部屋に入るのは初めてだが内部の映像は見たことがある。あろえたちの着替えのための衣装部屋なのだ。 『この壁際《かべぎわ》の三つのロッカーが、お嬢様《じょうさま》がたの衣装とアイテム保管庫です』  なぜかロッカーは三つ以上あったが、僕は仲良く並んでいる灰色の長方形に近寄る。ちゃんとネームプレートも貼《は》られていた。曲線過多のマンガ字で「あろえ」と書いてあるやつをまず開けてみる。ハンガーに吊《つ》るされたパステル調《ちょう》のコスチュームと、A3のスケッチブックと短い鉛筆。他《ほか》にも変な形の髪飾りとかバレッタとか鮭《さけ》をくわえた木彫りの熊《くま》の置物とか懐《なつ》かしのフラワーロックとかの小物の類《たぐい》がゴロゴロしていたが、それには用がない。衣装とアイテムだけを取り出して隣《となり》のロッカーに向かう。こちらのプレートには「巴《ともえ》」の字が躍《おど》っている。開けると、ポスターが所狭しと貼られていた。映っているのは往年《おうねん》の映画スターばかりである。渋い趣味《しゅみ》だ。リアクションに困る。衣装をあろえのものと重ねて肩に担ぎ竹刀《しない》を抱え、次は埜々香《ののか》だ。性格を表すようにちっちゃい字で「ののか」と書いてあるロッカーを開けた。コスチュームとアルトリコーダーしかない。殺風景だな、と感じて、ふと思いついた。 「なあ、僕が勝手にロッカー開けちまっていいのか? 巴《ともえ》あたりが怒るんじゃないかな?」 『怒るでしょうなあ。彼女は特にプライバシーを重視しているようですから。まあヤッてしまったことはしかたがありません。既成事実は事実として、今後の人生に活《い》かしましょう』  ガニメーデスが無責任にコメントし、僕は大荷物を抱え、羊のぬいぐるみをドリブルしながら部屋を出た。  見なかったことにしよう。        ☆ ☆ ☆  トランクに荷物を満載《まんさい》したオンボロセダンは女子校の校門で止まった。 『しばらくお待ちを。今、放送室のシステムに割り込みをかけて緊急《きんきゅう》放送をしています』  運転席から出て腕組みしながら待っていると、やがて校舎からあろえがひょっこりと姿を見せた。何の授業中だったのか一目で解《わか》る。頭に白い三角《さんかく》巾《きん》、萌葱《もえぎ》色《いろ》のエプロンを制服の上からまとって、右手にオタマ、左手にタッパウェアを抱えて出てきたからだ。 「調理《ちょうり》実習だったんだよ。作りかけだったけど持って来ちゃった。肉じゃが、好き?」 [#挿絵画像 (01_073.jpg)]  あろえが笑顔《えがお》でタッパを差し出して、僕が反射的に受け取ってしまったとき、巴《ともえ》が埜々香《ののか》をぶら下げて、息を切らせながら走ってきた。これまた授業の内容が理解できる格好で、 「いきなり放送をかけないでください。グラウンド中に鳴り響《ひび》いていたではないですか」  ようは体操《たいそう》着《ぎ》姿である。巴は目を回している埜々香の小さな身体《からだ》を脇《わき》に抱えていた。こちらは普通の制服姿で、気絶しているように見える。 「突然教室のスピーカーが自分の名前を呼ぶものですから、パニックに陥って机の下に潜《もぐ》り込んでいたのです。見つけるのに難儀《なんぎ》しましたわ」  巴は手足を垂らしている埜々香を車の後部座席に寝かせた。  ダッシュボード上のガニメーデスが言った。 『いやぁ体操着も実によいものですな。まあ私のデザインした戦闘《せんとう》用《よう》コスチュームには負けますが』  巴はガニメーデスよりも僕に視線《しせん》を向けて、 「わたしの健全な肉体をそんな目で見るのはおやめください」 「巴ちゃん、肉じゃが作ったんだよ。食べる? てゆーか食べてみてよ。おいしいよ」 「何をのんきなことを言っているのです。今はあなたの料理の味見をしている場合ではないでしょう」 『その通りですな。急いだほうがよいと思われます。カサンドラの警告《けいこく》から二十四分が経過しています。すでに出現していてもおかしくありません』  巴は助手席、あろえはオタマを持ったまま後ろに乗り込んで埜々香の頭を膝枕《ひざまくら》、僕はタッパとともに運転席に戻った。 『衣装とアイテムは持って来ていますので、このまま現場に向かいます。ではシートベルトを』        ☆ ☆ ☆  その現場は工事現場であった。町はずれの川沿い、新たな分譲《ぶんじょう》マンションでも建つのだろう。無骨な鉄骨がむやみに乱立している。ただ作業員や重機《じゅうき》はどこにもない。ガニメーデスによると事前連絡して撤収《てっしゅう》させたということだった。このエロコンピュータは各方面に顔だけは利くらしい。  そして車の中での着替えが始まった。 「あ、それあたしのだよ。巴ちゃんのはこっち。あたしには胸がぶかぶかだよ。あー、ののちゃん、あたしが着せてあげるね」 「……わわわわ」 「あろえ! さっさとそれをよこしなさい。それから埜々香は自分で着れます。あなたが脱がせる必要はないでしょう。……そんな嬉《うれ》しそうな顔で埜々香を剥《※む》[#「※」は「剥」の厳密異体字、第3水準1-15-49]くのはおやめなさい。気持ちが悪いですわ」  もちろん、僕とガニメーデスは車の外に出るように、あっちを向いているようにと巴《ともえ》に命じられたのは言うまでもない。バレーボールに羊の着ぐるみを着せたようなガニメーデスを携えつつ、僕は一人寂しく人気《ひとけ》のない工事現場に立ちつくす。背後で車がゆっさゆっさと揺れていた。 『ご安心ください』  ガニメーデスが自信満々に言った。 『車の内部にもマイクロカメラは装備してあります。お嬢様《じょうさま》がたの着替えシーンはばっちり録画《ろくが》中《ちゅう》です。のちほど見せて差し上げますよ。いやもう、この不自然な態勢での衣服の脱着が……おお! たまらん!』 「……気づいたんだけどさ。わざわざ車の中で衣装変えしなくても、いったん全員を拾ってから家に戻って、それからここに来たほうが手っ取り早かったんじゃないのか? 衣装を車に積み込む手間もはぶけたし、こんな狭い所で着替えなくてもいい」 『狭苦しい車の中での生着替え、これがいいんじゃないですか。シチュエーション萌《も》えというやつですよ。あなたには基本が解《わか》っていない!』  正直言って、応用があるのだとしてもあまり解りたくないような世界の話である。 『そんなすべてをぶちこわしにするようなことを言わないでください。我々の存在意義が危機《きき》に瀕《ひん》します』 「なんのことだ?」  バタム。車のドアが閉まる特有の音がして、僕は振り返った。先日も見たコスチュームに身を包んだ三人が車の前で三者三様に立っている。あろえは満面の笑顔《えがお》で、埜々香《ののか》は自信なさそうに下を向き、巴はぷいと横を向いて竹刀《しない》を肩に載《の》せていた。 「それで、EOSはどこです?」 『さて、まだ出ていないようですね。カサンドラの予言はEOS出現時から前後三十分の誤差がありますから、まだ後三十秒は誤差の範囲《はんい》内《ない》です』  仕組みはよく解らないが、カサンドラシステムはEOS探知装置らしい。予言の誤差が前後三十分ということは、警報《けいほう》を発した時点ですでに出現しているか、それから三十分以内に出現するかのどちらかだ。  あろえがのんびりとした笑顔を僕に向けた。 「遅いね。肉じゃが食べながら待ってようよ」  肉じゃがはともかくとして、それよりとうに三十秒が経過した。巴が眉根《まゆね》を寄せた。 「おかしいですわ。いつもに比べて、いくらなんでも遅すぎます。カサンドラの誤報ではないのですか」 『システム内にエラーは認められません。私同様、博士に作られた物にはいささかの誤謬《ごびゅう》もないことは疑う余地もありません』  こんな事態に陥っているのは爺《じい》さんの実験《じっけん》失敗のせいではなかったか、と考えていると、巴《ともえ》が口を開いた。 「でもそれなら……」  ふっと口をつぐみ、首を巡らせて天を仰ぐ。あっぱれな夕陽《ゆうひ》が彼方《かなた》の空で開花していた。雲ひとつない黄金《こがね》色《いろ》の天蓋《てんがい》。 「埜々香《ののか》」  巴は少しばかり硬い声で言った。 「あなたの <へてか> を起動して、犬コロたちを飛ばせてみなさい」 「えっ……わわ……はい……」  埜々香はちょっとキョドった後、リコーダーを吹き始めた。へたっぴな “さくらさくら ”が吹きさらしの工事現場に哀愁感を漂わせる。  同時に、赤青黄の犬の形をした光が三つ、埜々香の周囲に現れた。 「わー、コロスケ、今日も元気だねえ」  あろえが話しかけているのは一番活発に飛び回っている赤い犬《いむ》精霊《せいれい》 <すきゅら> だ。青い <らいらぷす> は埜々香の後頭部に隠れるようにしてへばりつき、黄色の <けるべろす> は出現するなり地面に墜落《ついらく》してぐったりしている。あろえは <けるべろす> をちょんちょんとつつきながら、 「だめだよ、八幡《はちまん》太郎《たろう》。ちゃんとお仕事しなきゃ。コロスケを見習おうよ。山田《やまだ》さんもさー、もっと元気に飛び回ろー」  そう言われても青と黄色の犬たちはまったく馬耳《ばじ》東風《とうふう》、それに赤い奴《やつ》にしたってただ無目的に上空を旋回しているだけだ。 「えっ?」  そのぐるぐる回っていた <すきゅら> が、一気に数十メートルも上昇したかと思うと突然|爆発《ばくはつ》した。 「わあー?」  あろえがハテナマークを頭上に浮かべて口を開き、埜々香は思わず演奏中止、犬精霊たちがすうと消えていく。巴が叫んだ。 「しまった!」  閃光《せんこう》の上がった空から、驚《おどろ》くべき勢いで放射状に光が発生した。薄《うす》い蛍光ピンク。マゼンタ色の光が僕たちを取り巻くように、まるで野球場のウェーブのようにぐるりと一周して、EOSがその全貌《ぜんぼう》を明らかにした。 「うわぁ……」  それはまるでドーム状になったイバラの檻《おり》だ。トゲだらけの何百という蔦《つた》とも触手ともつかないものが工事現場をまるごと覆《おお》っていた。地面を除くどこを見てもピンク一色、さらに気味の悪いことに一本一本が丸太ほどある太い蔦《つた》もどきは、まるで意志があるようにのたくっている。 「ありゃあ?」  あろえが目を丸くし、ガニメーデスがしたり声で言った。 『これは……完全に裏をかかれましたね。我々はまんまと罠《わな》に誘いこまれたようです。EOSの出現前に辿《たど》り着いたつもりが、敵はとっくにこの世界に現れて我々の到着を姿を消して準備万端待っていたというわけです。つまり我々は今現在、奴《やつ》の中に閉じ込められています。しかもこのイバラのドームはなお拡大中。これはまずいですね』 「巴《ともえ》ちゃん、どうしよう」 「どうもこうもありません。いつものように <核> を見つけて破壊《はかい》するオンリーです。あろえ、埜々香《ののか》、行きますよ!」 「はーい」  あろえは地面にスケッチブックを置いて鉛筆を振りかざした。 「何|描《か》こうかな〜。うーん」  そう言いつつもすでに手を動かしている。巴は適当な構えで竹刀《しない》を斜め上空に突き上げてチャージ中、埜々香だけがひたすら笛を演奏しているが、犬の幽霊《ゆうれい》モドキたちは相変わらず言うことを聞いていない。  巴の持つ竹刀がコバルトブルーに輝《かがや》き始める。この竹刀を媒介に次元エネルギーを放出するのが彼女のDマニューバ <えりす> の役割である。 「グレイテストゴールデンスパッ……」  巴は口を押さえた。噛《※か》[#「※」は「口+齒」、第3水準1-15-26]んだようだ。咳払《せきばら》いののち、改めてオリジナル必殺技名を言い直しつつ竹刀を袈裟《けさ》斬《ぎ》りに振り下ろし、眩《まばゆ》いフラッシュがうようよいる蔦の一部を吹き飛ばした。  あろえの <あぐらいあ> もやっと稼動《かどう》し始めたようで、スケッチブックが光に包まれ変容していく。数瞬《すうしゅん》後《ご》、あろえの目の前に現れたのは……。 「何だ、ありゃ」  巨大なホタテ貝に針金みたいな手足がついているというバケモノが、バンザイしながら立っていた。見れば見るほど何が何だか解《わか》らんシロモノである。あろえは叫んだ。 「いけーっ! カイガラムシマンーっ!」  バケモノの名はカイガラムシマンと言うらしい。カイガラムシ? 『草木につく害虫です。ちょうど今回のEOSが植物状なので、そこから連想でしょう。しかしあろえさんはカイガラムシを見たことはなく、名前でしかご存知ないらしい。ああいうものだと思いこんでいるようですな』  全長三メートルくらいのホタテ怪人はぺったんぺったん走り出し、EOSがうるさそうに振るった蔦にあっさり吹き飛ばされた。  弱いぞ、カイガラムシマン。 「ああー、カイガラムシマーン!?」  あろえの懸命《けんめい》の応援も虚《むな》しく、貝殻のバケモノはぴくりともせずに仰臥《ぎょうが》していた。  巴《ともえ》は巴で次のチャージが終わるまでEOSの攻撃《こうげき》から逃げ回っているだけなので、こうなると動けるのは埜々香《ののか》だけである。泣きかけの表情で彼女が吹く演目は “さくらさくら ”から “荒城の月 ”に変わっているが、ますますヘタクソになっている。何とか主人を守ろうとする意識《いしき》があるのは青い <らいらぷす> だけで <すきゅら> と <けるべろす> ——あろえ風に言えばコロスケと八幡《はちまん》太郎《たろう》——は、全然やる気もなさげに、あさっての方角に飛んでいるか、地べたを這《は》っているかだった。  彼女たちの活躍《かつやく》らしきものを見守るしかない僕にガニメーデスの声が届いた。 『あなたは車の中にどうぞ。今となれば無駄《むだ》かもしれませんが、まだ安全です。いやはや、今回はマジヤバですね。二度目の出撃がこれとは、あなたも運がない。遺書を残されるつもりがあれば口頭でどうぞ。録音《ろくおん》しておきます。まあそうなったら世界そのものが異次元化するのでどっちにしろ無駄ですが』  僕は運転席に戻った。 「どういうこった」 『巴さんではありませんが、どうもこうもないですな。今回のEOSは今までの戦いから戦訓を得たようでして。今までは目に見える形で実体化しておったのですが、この度は不可視状態に身を置いて出現を探知した我々がノコノコやってくるのを待ち受けていたというシナリオです。我々はEOSの内部に取り込まれているわけで、その上すでにこの敷地《しきち》内《ない》はあちらの次元に半ば飲みこまれているのです。簡単《かんたん》に言うとここは我々にとってアウェー、すんごく不利なのですな』  僕はピンク色のトゲ付き蔦《つた》の群れと、地面に横たわるカイガラムシに付き添って「立ってー」とか言っているあろえ、竹刀《しない》を振り回す巴、小刻みに震《ふる》えてリコーダー吹いている埜々香を順《じゅん》繰《ぐ》りに眺めてから言った。 「つまりどうなんだ」 『敗色|濃厚《のうこう》です。あとは彼女たちを信じるしかありません。しょせん私ができるのは確率《かくりつ》計算くらいでして、信じるだけなら可能性は無限です。正直言って我々が無事|帰還《きかん》する確率は5%に満たないのですが、それでも5%と言えばけっこうな数値ですからねえ』  そんなこと言われても僕の目の前でおこなわれているのは喜劇《きげき》にしか見えない。現実感覚も全然ない。もし彼女たちがEOS掃討に失敗すれば現実そのものがなくなるという話だが、未《いま》だに僕には理解しがたい。  間違いのないことと言えば、EOSの発する蛍光ピンクがどんどん色《いろ》濃《こ》くなってきていることと、その全体像が拡大しつつあることだった。 「で、僕は何をすればいいんだ?」 『邪魔《じゃま》にならないようにじっとして、あとは彼女たちの応援くらいですかねえ』  埜々香《ののか》はいったんリコーダーを離《はな》して深呼吸した。精霊《せいれい》犬《けん》たちが消えていく。そこをEOSに狙《ねら》われた。  一際太い触手がねじくるように跳ね上がり、埜々香の身体《からだ》に狙いを定める。まずい。 「おい、何とかしろ」 『それは私に言っているのですが? しかし私やあなたに何ができます? たとえ身体を投げ出したところで、せいぜいできるのは盾がわりですよ?』 「充分だ」 『やれやれですな。この車はご存知の通り博士のお気に入りでしてね。くれぐれも傷一つつけないように申し渡されておったのですが。ではシートベルトをどうぞ』  ギアがニュートラルからセカンドへ叩《たた》きたこまれた。白いオンボロセダンは前輪《ぜんりん》を激《はげ》しく空転させた後、僕の身体をシートにめりこませながら急発進、とほぼ同時に急ブレーキ、強烈な逆G、つんのめる僕を乗せたまま埜々香の目の前に停車した。 「……!」  一抱えもある蔦《つた》が車の屋根にぶち当たった。あと五十センチずれていたら僕の頭蓋《ずがい》はぺしゃんこになっていただろう。ルーフを突き破った蔦が後部座席に金属片をまき散らす。  運転席のすぐ横に埜々香の姿が棒のように立っていた。真《ま》っ青《さお》な顔は、青白い燐光《りんこう》をまとっているからだけではなさそうだ。  ほうけたような顔で僕を見つめた後、埜々香は、ぎゅっと目を閉じて笛を吹いた。途端《とたん》、三色の犬たちがとてつもない輝《かがや》きを放ちながら一列に並んで出現、そして同時に前進した。  流星雨のように視界を横切った犬型鬼火群は、次々とEOSに激突《げきとつ》してすさまじい爆発《ばくはつ》を起こした。巴《ともえ》の鋭《するど》い声。 「あろえ! 今です!  <核> が剥《※む》[#「※」は「剥」の厳密異体字、第3水準1-15-49]き出しになっている今のうちに!」 「でもっでもっ、動かないよう」  あろえのカイガラムシマンは全身から煙を吹き出して倒れ伏している。その上空で <核> は鈍色《にびいろ》の光を放ちながら回転していた。  巴が仄白《ほのじろ》く輝いた竹刀《しない》を振り回しているが、別の場所から伸びてきた蔦が急所をすぐさま隠してしまう。EOSの反撃《はんげき》。無数の蔦が同時に三人を襲《おそ》う。あろえは転がって逃げ、巴は竹刀で応戦、埜々香は……。  力が抜けたように座り込んでいた。  反射的に僕はドアに手をかけた。くそ、シートベルトが邪魔だ。誰《だれ》がこんなもんを発明した奴《やつ》は。間に合わない。僕はの埜々香の胴よりも太いピンクの触手が彼女の上空から小さな身体を粉々にするのを見た——見たように思った。同時に、どこか遠くで爆音がした。  ——直後。  残像すら残さず埜々香《ののか》は消え失《う》せた。ただ地面だけが裂けている。あろえが喜色満面に、 「琴梨《ことり》ちゃん!」  横を見る。助手席側の窓の外で、三人と同じ格好をした別の少女が、埜々香を小脇《こわき》に抱えていた。その琴梨と呼ばれた少女はあろえに手を振って、 「わお! ナイスタイミングギリギリ滑りこみセーフだねっ! やあ! みんな生きてるねっ! 健康一番!」  口を大きく開けてえらい大声、髪が短く元気の有り余っているような顔に真っ白な歯がやけに映える。その娘に抱えられて、埜々香はまたしても気を失っているようだった。四肢をだらんとさせているのがその証拠だ。  僕が見ているうちに埜々香を抱えた少女の姿が不意に消え失せた。見間違いかと思って瞬《まばた》きしていると、 「誰《だれ》っ! この人! うわー博士!? どうしたのっ! 五十歳も若返ってるよ! 信じられーん! あ、解《わか》った! 若返りの薬だ! わっ、欲しい欲しいあたしも欲しいよっ!」  今度は反対側、運転席の窓からその娘の落花生《らっかせい》のような笑顔《えがお》が飛び込んできた。 『えー、そのお嬢《じょう》さまは鴻池《こうのいけ》琴梨さんと申しまして。スケートボードに宿った次元エネルギーでもって瞬間《しゅんかん》移動と大差ない高速移動を可能とするDマニューバ <あたらんて> の使い手です。しかし間一髪でしたね』 「若い博士っ! ののを頼むさっ!」  琴梨は埜々香を地面に放り出して、 「ひゃっほうっ!」  全身に青白く燐光《りんこう》をまとわりつかせ、目にも止まらぬ速度ですっ飛んで行った。脚をまったく動かしていない。彼女が乗っているスケートボードはまるでエンジン付きのようだ。人型《ひとがた》の光となった琴梨はEOSの蛍光ピンクの壁《かべ》にそのまま体当たりをかました。フラッシュと爆音《ばくおん》が連続し、琴梨は何本もの蔦《つた》をぶち抜いて壁の外に飛び出して行った。大穴が開いている。その向こうに見えるのは、夕暮れのオレンジ色だ。僕たちの世界。  巴《ともえ》が詰問《きつもん》口調《くちょう》で、 「琴梨、あなたが間に合ったと言うことは、凌央《りょう》も来ているのですね? どこです」 「あっちだ!」  元気よく彼女の指差す先、開いた穴のすぐ外に、幽霊《ゆうれい》みたいな青白い影《かげ》が立っていた。当然のごとく例のごとく、ガニメーデスデザインのコスチュームに身を包み、まるで石像のように無表情な少女。人形以上に人形じみた無機《むき》質《しつ》な動作で、柔らかそうな髪をふわりと揺らせながら、少女はゆっくりゆっくり穴を通って歩いて来た。彼女は数歩進んだところで脚を止め、パチリと一回だけ瞬《まばた》きをする。そして首にモーターでも入っているのかと思うほど機械的な動きで顔を仰《あお》向《む》かせ、 <核> を見つめた。次に右手をゆるりと上げる。その手には青い燐光《りんこう》に彩《いろど》られたアイテム。どう見ても習字用と思える毛筆があった。 『ご安心ください。あのお嬢《じょう》さんで私の持《も》ち駒《ごま》は最後です。ホッとしました? 五人目のあのかたは、雪崎《ゆきざき》凌央《りょう》さん、能力は……』  凌央なる無表情少女は、無言のまま片腕を静かに動かし、何もない空中にゆっくりと筆を走らせた。光の文字が墨痕《ぼっこん》鮮《あざ》やかに描かれる。空中に固定されたその文字は、僕の位置からでは鏡《かがみ》文字になって見える。なんとか読めた。『乾坤《けんこん》一擲《いってき》』と書いてあるのだった。  次の瞬間《しゅんかん》、光る四文字の漢字はひときわ強く輝《かがや》くと、文字の形を保ったまま一《いっ》直線《ちょくせん》に飛び、光る四字|熟語《じゅくご》となってEOSの <核> 、赤黒い円盤《えんばん》の中央にぶち当たった。  閃光《せんこう》。真ん中を打ち抜かれて消し飛ぶ、 <核> 。 「…………」  特に感動もなさそうな顔で、凌央は両手を垂らし、それから少しだけ首を傾《かし》げて僕の方をじっと見つめた。まったく感情のこもらない目が僕を直視する。 『いちいち覚える気にもならないかもしれませんが言っておきましょう。凌央さんのDマニューバは <でうかりおん> 。あの筆が使用アイテムです。筆で書かれた文字が文字通りの効力を発揮するという、語彙《ごい》力《りょく》が運命を左右する能力ですな』 「やったー、終わったよー」  あろえが跳《は》ねながら喜び、カイガラムシマンは姿を消して元のスケブに戻っていた。巴《ともえ》が駆け寄ってきた。 「遅いですわ二人とも。いったいどこで道草を食っていたのですか」  琴梨《ことり》は元気よく笑って、 「草なんか食べてるかっ! 全速力シベリア超特急で来たよ! 凌央に合わせて歩いていたのが失敗だったかなっ!」 「背中に凌央をかついでもあなたの <あたらんて> なら一瞬でしょう。なぜそうしなかったのです?」 「んなこと言っても! いくらあたしでも天下の往来をマッハで走ったらぶつかりまくりだって! それに道に迷ってたしさ!」  周囲を取り巻いていたピンクの壁《かべ》が崩壊《ほうかい》を始めていた。EOSのマゼンタ色が明滅を繰《く》り返し、見る側《そば》からパラパラと崩落していく。ガラス片のように粉々に、キラキラ輝く様は不思議《ふしぎ》に壮観な光景だった。 「つまり」  と、僕は重たくなった唇をなんとかこじ開けつつ声を発する。 「この娘《こ》たちは五人組だったんだな? 三人だけじゃなくて」 『見れば解《わか》るでしょうが。何を言ってるんです? ここまで苦戦したのは全員|揃《そろ》ってなかったからに決まってるじゃないですか。最初から五人いれば楽勝でした。当たり前でしょう』 「……帰還《きかん》確率《かくりつ》5パーセントというのは何だったんだ」 『ですからそれは三人で最後まで戦闘《せんとう》した場合の確率です。五人|揃《そろ》っていた場合で計算し直しましょうか? あー、ちょうど逆ですね。95%の確率で我が方の大勝です』 「……あの二人はどこで何してたんだ?」 『ごくまれにですが、小規模のEOSが発生することがありましてね。おそらく偵察用かと思いますが、そっちは大した手間もかからず処理できるものですから二人で行ってもらいました。三日ほど前のことになります』 「三日間もかかるほどの遠くに?」 『いえ、隣《とな》りの街です。館《やかた》から徒歩で三十分くらいですか』 「迷子になってたのさっ! どうしても屋敷《やしき》に帰れなくて困ったよ! でもちょっと楽しかったけどねっ! 野宿もたまにはいいよっ!」  琴梨《ことり》があっけらかんと言い放つ。 「食事はどうしていたのです?」  眉《まゆ》をひそめる巴《ともえ》に対し、琴梨は、 「街を歩いてたらなんか誘ってくる男の人がいっぱいいたからさっ、ゴチになってたよ! 全然困らなかったさ! もうけたっ!」  徒歩三十分の距離《きょり》を往復三日かかるとは、恐るべき方向音痴だ。それはそれとして、 「どうして最初の日に言わなかったんだよ。五人いることを」  平然とガニメーデスは答えた。 『驚《おどろ》かせようと思って黙《だま》っていたんですが、驚きませんでしたか?』  降り注ぐピンクの破片は、地面に落ちる前に雪よりも儚《はかな》く消えていく。空は元の夕陽《ゆうひ》を取り戻していた。巴がごくあっさりと、 「では帰りましょうか。あろえ、凌央《りょう》を連れてきなさい。言わないとあの娘《こ》はずっとあそこで立ちっぱなしです」 「はーい。お腹《なか》お腹|空《す》いたよ」  あろえは元気よく歩いて、風景に同化したようにボーッと立ちつくしている凌央に近寄っていった。埜々香《ののか》は気絶して、地面にうつぶせで転がっている。スケートボードに乗った琴梨が車輪をガラガラさせて車まで来た。 「そこの若い博士っ! 晩ご飯なにっ!」  無表情な凌央の手を引いて寄ってきたあろえが、 「ちがうよー、その人は博士の孫の人で、ひーくんだよー」  凌央は焦点の合っていない目で僕を凝視《ぎょうし》した。シトリン・トパーズのような瞳《ひとみ》である。よく見るまでもなく、どういうわけだかこの少女の衣装だけが他《ほか》の四人と趣《おもむき》が違う。僕が今朝《けさ》バスで見かけたのはこれだ。 「…………」  彼女は屋根が半壊《はんかい》しているおかげで途中半端なオープンカーになっている車にも特に思うことはないような表情をしていたが、しばらくしてゆらりと顔を上げた。そして、どこからともなく勧進《かんじん》帳《ちょう》かと思うようなゴツい帳面を取り出してかと思うと黙《だま》って筆を走らせ、僕に見せつけるように掲げ持ち 「…………」 『逆転無罪』とか書かれている。それきり凌央《りょう》は一言も喋《しゃべ》らないままボーッと立っているだけで補足説明なし。僕がその言葉に何の意味があるのかと反応に苦しんでいると、あろえが屑鉄《くずてつ》同然のドアをまたいで、 「よいしょ」  と言いながら入りこみ、次に動かない凌央を引っ張るように入れてやった。巴《ともえ》は当たり前の顔をして助手席に座る。  琴梨《ことり》が埜々香《ののか》を抱えて車の後ろに回ったので、どうするつもりなのかと訊《き》いた。 「埜々香はね、いつもとランクに入れてるわけ! だってこれ五人乗りでしょ!」  いまさら道交法を気にしても、こんな事故車丸出しで公道を走っていたらまず間違いなく途中で止められそうだ。 「いいよ、運転席に乗せれるだろ」  睡眠中の猫みたいにぐんにゃりした埜々香を受け取って、僕は膝《ひざ》の上に置いた。 『良いですな! そうしているとまるでお人形さんのように可愛《かわい》らしい。画像データを記録《きろく》しておいて良いですか? だめだと言ってももうしてしまいましたが、後で埜々香さんにも見せてあげましょう』  言い返す気力も残っていない。巴が発現、 「ガニメーデス、いいから速《すみ》やかに発車しなさい。わたしもいい加減疲れましたわ」 「晩ごはんどうしよう。あ、肉じゃがあるよ」と、あろえ。 「腹減った!」と、琴梨。 「…………」と、凌央。 「なあ、ガニメーデス」と、僕は小声で言った。 「この新しい二人は料理できるのかな?」 『さあ、参考までに言うと、琴梨さんと凌央さんがキッチンに立っている姿は記録にありませんな。どうせ私には物を食べる機能《きのう》がないのでどうでもいいことです』  素っ気なく返してガニメーデスは、 『それでは我が家へ帰るとしましょうか。所要時間は推定約八分です。皆さんどうぞシートベルトを』  サスペンションがどこかイカレているのだろう、ガタガタ車体を揺すりながらボロセダンは工事現場からアスファルトに乗り出した。  後はパトカーとすれ違わないことを祈るのみだった。        ☆ ☆ ☆  首尾良く爺《じい》さんの屋敷《やしき》に帰り着いた後、琴梨《ことり》と凌央《りょう》は巴《ともえ》によって風呂《ふろ》場《ば》に放り込まれた。 「三日間も湯浴みをしないとは、わたしにはおよびもつかないことです。服も入念に洗濯《せんたく》しなければいけませんよ」  まだ失神したままの埜々香《ののか》はあろえが「うんしょ」と言いつつ居間まで引きずって、僕はと言えばガニメーデスを抱えながら半壊《はんかい》した車を眺めているのである。 「どうやって修理するかな……」 『博士なら自分でやってしまうのですがねぇ。近くの板金工に持ち込むしかありませんな。高くつきそうです』  暗くなり始めた空に向かってため息一つ、僕は玄関に取って返した。ガニメーデスを下駄《げた》箱《ばこ》の上に置き、靴を脱いで上がると廊下に琴梨が立っていた。風呂上りだと一目で解《わか》る。なぜなら身につけているのはタオルだけだったからだ。えーと、どこを見よう。 「やあっ! ひーくんだっけ! これからよろしくっ! 一緒《いっしょ》にがんばろうねっ!」  腰に巻いたものと首にかけている手ぬぐいが彼女の身を隠すすべての布地である。巴よりグラマーかな、と人知れず思っていると、 「琴梨っ! 何をしているのですっ!」  台所から巴が飛び出してきた。タオル二枚の琴梨の前で、バスケのディフェンスのように俊敏にガード。慌てて僕は自分のついでに、目のレンズをぎゅるぎゅる回していたガニメーデスも背後を向かせた。 『おおっ? 見えないっ! 壁《かべ》しかっ、壁しか見えません! 何と言うことだ! これは放送事故です! 視聴《しちょう》者《しゃ》からクレーム電話が殺到です!』 「なにしてんの巴、見せて減るもんでもないよっ」と琴梨の声。 「減ります! わたしの神経がすり減るのです! いいからさっさとお行きなさい」と巴の声。 「へーいっ」  足音が遠ざかり、もういいだろうと振り向いた僕は琴梨のニカッと笑う顔と対面した。彼女はその場で足踏みをしていただけだった。  巴は再びディフェンスモード、 「琴梨! 早く行くのです! そこのあなたも、しげしげと見るものではありません!」 「へいへい。巴も大変だねっ!」 「それから、凌央はどうしてます?」 「あたしが見たときは湯船につかってたけどなあ。今はどうしてんのか知らないっ!」 「たぶん今でもつかっています。あの娘《こ》は誰《だれ》かが出ろと言うまで出てきません。浴槽《よくそう》の底に沈む前に出してきなさい。でないと今度も人工呼吸するはめになりかねませんわ」 「わかったともさ!」  すべらかな背中を存分に見せつけながら琴梨《ことり》はようやく去ってくれ、やがて風呂《ふろ》場《ば》の方から、 「わわーっ! 凌央《りょう》がっ! ぶくぶく言ってる!」  面白《おもしろ》がっているとしか思えない声が聞こえた。ふうと息を吐いてから、巴《ともえ》は赤みを帯びた顔で僕を睨《ね》めつけた。 「食事の支度《したく》をお願いします。あろえが張り切って作ろうとしていますが、あの娘だけでは不安なものですから」  人にものを頼むには居丈高《いだけだか》すぎる口調《くちょう》で言って、しばしの逡巡《しゅんじゅん》の後、 「解《わか》ったですわね、……ひ、ひ、ひ、ひ……」  続く言葉は聞けなかった。巴は途中で口を閉ざすと、僕をしばらく眺めてから長い黒髪を翻《ひるがえ》した。ひ、の後のセリフは何だったんだろう。ガニメーデスが言った。 『典型的な素直になれない症候群ですかねぇ。いやぁ、こんな巴さんも新鮮《しんせん》でよろしいです』        ☆ ☆ ☆  この日のディナーは山盛りの猫喜び炒飯《チャーハン》と一皿の肉じゃがだった。あろえの笑顔《えがお》のように、肉じゃがは甘 かった。 [#挿絵画像 (01_098.jpg)]  第三話 『園児と海』 「あつい〜〜」  あろえが扇風《せんぷう》機《き》を相手に発声練習していた。二十年くらい前からこの屋敷《やしき》にあること確実《かくじつ》のロートル扇風機と、縁側《えんがわ》でたまに鳴る風鈴、その二つが現在この館《やかた》で涼を取るためのすべての道具である。 「あろえ、そこをどきなさい。わたしまで風が届かないではないですか」  ソファにしなだれかかっていた巴《ともえ》が長い髪を後ろに払いのけて言った。その横では埜々香《ののか》が両手で持った団扇《うちわ》をパタパタさせて、巴に風を送っている。かわいそうに、埜々香自信はすでに汗にまみれていた。  扇風機の前で正座しているあろえが振り向いて、 「だってあついあついよ。凌央《りょう》ちゃんは暑くないの?」  凌央《りょう》は普段《ふだん》とまったく同じ顔をして、つまりまったくの無表情で、長《なが》椅子《いす》の端に行儀《ぎょうぎ》良《よ》く姿勢を正して座っていたが、 「…………」  物凄《ものすご》くゆっくりした動きであろえを見て、それから僕を見上げ、また真正面をじいっと見つめ始めた。視線《しせn》の先の壁《かべ》にはカレンダーくらいしかない。  屋敷《やしき》の居間である。彼女たちは思い思いの格好でぐてっと転がっていた。今日は平日なのだが、たまたま彼女たちの学校は創立記念日なのだった。  一人足りないなと思っていたら、開けっ放しの縁側《えんがわ》から心ゆくまで楽しそうな声が聞こえてきた。 「琴梨《ことり》なら、庭で猫たちにノミ取り粉を振りかけておりますわ」  巴《ともえ》は解説ついでに、 「ところで、あなた。ヒマならわたしを扇《あお》いでください。埜々香《ののか》の風は超《ちょう》微風《びふう》なのであまり効果がないのです」  そう僕に命令した。僕はふらふらしている埜々香の手から団扇《うちわ》を取って、埜々香を扇いでやった。 「……あ。う……あ」  埜々香は視線を泳がせながら小さい声を出す。前髪がはたはた揺れている。  巴はムスっとした表情を作ったが、何も言わずにソファの背によりかかって汗を拭《ぬぐ》った。  さもありなん。とにかく暑かった。そのセンテンスに続く文面が思いつかないくらい暑い。どのくらいかというと、まだ七月にもなっていないのに海開きまでされているくらい暑いのである。湿度も気温もほとんど観測《かんそく》史上最大値を叩《たた》き出しているような気がする。  おまけに僕たちの住まう爺《じい》さんの館《やかた》では現在エアコンが稼動《かどう》していない。これに関してガニメーデスのイイワケを聞いてみよう。 『いやー単純なハードウェア上の動作不良ですね。ソフトの異常ならたちどころに私が修正して差し上げることも可能なのですが、このような原始的な機器《きき》的《てき》異常にはまだまだ人手を必要としているわけなのですな。私の手足となる作業ロボットでもいればいくらでも修理するのですが、残念ながら実用化されておりません。ですので私も手の打ちようがないと、まあそういうわけですなあ。げっげっげっ』  信じていいのかどうなのか。僕にはガニメーデスがワザとやっているような気がしていた。  居間に集合している彼女たちは、とてもそのまま外に出かけさせることのできないような薄着《うすぎ》である。答えは簡単《かんたん》、暑いから。巴は悩ましげに身体《からだ》をくねらせているが、どこを見ていいのか僕のほうが悩ましい。 『あなたもそろそろ化けの皮をはがしても良い頃合《ころあ》いではないですかねぇ。だんだんそんな気分になってきたでしょう? 空腹のチーターの前に鹿《しか》の群れを持ってきたようなものです。自然界の摂理から言っても、襲《おそ》ったところでどこからも文句は出ませんよ。生物学的見地において実に正当な心理的働きです』  そんな無茶《むちゃ》苦茶《くちゃ》な理屈をこねるガニメーデスを、僕はインサイドキックで軽く蹴《け》り転がした。  勝手に上がりこんでいる近所の猫たちも四人と一緒《いっしょ》にぐったりしている。すっかり停滞した大気は温いゼリーみたいに淀んでいた。庭の壊《こわ》れた噴水《ふんすい》を本格的な夏到来までに直しておこうか。少しは涼しくなるかもしれない。  そう考えながら蚊《か》取《と》り線香の煙と琴梨《ことり》の声を辿《たど》って縁側《えんがわ》へ移動する。  雑草しか生《は》えていない屋敷《やしき》の庭では、Tシャツと短パン一丁の琴梨が走り回っていた。 「はっはは! まてーいっ! 逃げるなっ。何もしないからさっ!」  琴梨は逃げまどう猫を俊敏に捕獲《ほかく》し、ノミ取り粉を振りまいてやっている。 「はい終わり! 次の人っ!」  屋敷の庭はここら辺一帯の猫の溜《た》まり場になっているから、獲物《えもの》には事欠かない。逃げ遅れた猫たちが次々に琴梨の餌食《えじき》となっている。速いのはスケボーに乗っている時だけかと思っていたが、琴梨の瞬発《しゅんぱつ》力《りょく》と反射神経は動物以上のようだった。琴梨は僕を見つけると猫を放り出し、 「いやーいい汗かいたねっ。今度はお風呂《ふろ》入れてあげるからお楽しみにっ! あっ! ひーくんっ! アイスまだ残ってたっけ!」 「いや、ない」  縁側に腰を降ろして見上げてくる、満面の笑顔《えがお》に僕は答えた。 「昨日の風呂上がりにみんなが喰《く》っちまったので最後だよ」 「今日はヒマだねっ。みんなも猫もグテってしてるから超スーパー面白《おもしろ》くないよっ! ひーくん、何かして遊ぼうっ! 今日は暑くてヒマだよ!」 「僕はこれから学校だ」  出席しておかなければいけない講義《こうぎ》がいくつかあるし、それに大学は冷房も効いてる。 「つまんないなあ。あたしは遊び相手が欲しいよっ! 犬飼おうよ犬っ。猫飽きたっ!」  琴梨は縁側に腹《はら》這《ば》いして足をバタつかせた。実は大破してしまった車の修繕《しゅうぜん》費用で爺《じい》さんの銀行口座に残っていた資金はほとんど底をついた。このままでは三食ともが、あろえ作による猫喜び炒飯《チャーハン》になる。犬にやる飯は残りそうもない。 「暑いっ! つまらん! 猫飽きたっ! あー犬欲しい! 散歩させたいっ」  僕は琴梨にそこらにわだかまっている猫に紐《ひも》を付けて散歩させることを提案してから、 「じゃあな、琴梨」  駄々《だだ》っ子《こ》状態の琴梨を残して居間に戻る。  あろえは扇風《せんぷう》機《き》の前で伸びていて、巴《ともえ》はソファに、埜々香《ののか》は絨毯《じゅうたん》に正座してまた巴を扇《あお》いでいる。凌央《りょう》は——と、見ると、いつの間にか壁際《かべぎわ》に移動していた。じいっと突っ立って、カレンダーを一心に見ている。その凌央《りょう》の頭が扇風《せんぷう》機《き》のように横を向き、僕に向かってだろう、 「うみ」  ポツリと呟《つぶや》いた。 「海?」と僕。 「うみ」  凌央は言って、また扇風機のように首を戻しカレンダーを凝視《ぎょうし》する。彼女が見ているのは、六月なのになぜか海の様子《ようす》を捉《とら》えている風景写真だった。 「海かあ」  言いながら、あろえが起き上がった。とことこ歩いて凌央の横に並び、 「凌央ちゃん、海が見たいの?」 「…………」  凌央は、あろえを見て、僕を見て、またカレンダーを見るという動作を一分くらいかけておこない、 「うみ」  何の感情もなさそうに小声で言うのだった。 「いいねっ!」  突如の大声と一緒《いっしょ》に駆け込んできたのは琴梨《ことり》だ。その姿を見る居間の猫たちが、猫のくせに、脱兎《だっと》の如《ごと》く逃げまどう。が、やすやすと二匹の猫を捕獲《ほかく》、首根っこを持って振り回しながら、 「海行こう海っ! こういう時は塩水《しおみず》につかろうっ。うんそれがいいさっ!」 『実にグレイテストな提案です』  足元に転がっていたガニメーデスが発信した。 『夏と言えば海。海と言えば開放感。開放感と言えばあられもない肌そして肌。なんと素晴《すば》らしいアイデアでしょう! 行きましょう秀明《ひであき》さん! 今! たった今すぐに!』 「いや、でもな……」  僕は講義《こうぎ》が——という反論《はんろん》はかき消された。 『天上の光景が今まさに広がらんとしているのにあなたは何を逡巡《しゅんじゅん》しているのか私には理解不能です! 琴梨さんが海を所望《しょもう》しているのですよ! さあみんなでで海水に浸《ひた》りに行きましょう! その様子《ようす》を私は浜辺で見守っております!』  巴《ともえ》が反対意見を言うかと思ってたら、 「よいかもしれません」  巴は埜々香《ののか》から団扇《うちわ》を取り上げ、バッサバッサと自分に風を送って、 「何しろ暑すぎます。今日は平日ですし海水浴客もそんなに溢《あふ》れてはいないでしょう。そこの、ひ……博士のお孫さんとガニメーデスがそっぽを向いていればよいだけのことです。埜々香はいかが? あなたは泳げたかしら」 「は……」  埜々香《ののか》は何か言おうと口を開き、全員の視線《しせん》を浴びていることに気づくと、 「うう……」  と呻《うめ》いてうつむいた。 「じゃ、お弁当作るね」  明るく言ったあろえが早くも台所へと歩き出し、琴梨《ことり》は「ハワイまで遠泳しようっ! 準備だ準備っ!」と叫びながらどこかに走り去った。巴《ともえ》は埜々香をせき立てるように立ち上がらせるとあろえの手伝いを申しつけ、自分は自室へと向かうようだ。  居間には僕とまだ何か妄言《もうげん》を垂れている化け羊コンピュータ、そしてずっとカレンダーを見つめたまま黙《だま》りこんでいる凌央《りょう》が取り残された。  僕は窓の外に目をやって呟《つぶや》きを漏らした。        ☆ ☆ ☆  暑さ対策なら市民プールでもよかったのではないかと思いついたのは、すでに車が走り出してからだった。  風でバサバサ乱れる巴の長い髪が僕の頬《ほお》を打っている。彼女は助手席にいて、僕は運転席に座っていた。座っているだけだ。運転しているのは僕ではない。  カーステレオからは、意味もなくポップでサイケな曲が鳴り響《ひび》いている。唄《うた》っているのはガニメーデスで、作曲作詞アレンジもガニメーデスだった。ついでに言えば運転しているのもガニメーデスだ。僕と巴に挟まれて置いてある羊モドキは、 『夏で海で水着ですよ! これ以上ない期待の情景ですな! 日本に四季があるというこの喜び! 造物主に感謝《かんしゃ》状《じょう》を贈《おく》りたいくらいです。神よ、あなたの私書箱を教えてください!』  とか言うようなことをラップ調《ちょう》で喚《わめ》いているが、誰《だれ》も聞いていなかった。  助手席の巴はずっと左車線を眺めているし、後部座席のあろえと琴梨はよほど外出が楽しいのか、ハイになって騒《さわ》いでいる。二人の間にきちんと座っている凌央は黙《だま》って真正面を凝視《ぎょうし》し唇を引き結んでいた。埜々香はというと車内のどこにもおらず、トランクルームに押しこまれている。このオープンカーは五人乗りなのだ。  前回のEOSとの戦闘《せんとう》で半分スクラップになったボロセダンだが、近所の修理工場に持ち込んだおかげで何とか自動車としての面目《めんぼく》を施せるほどに回復した。回復しなかったのは屋根の部分である。はっきり言うとその分に回すお金が足りなかった。と言うわけで、現在この車はオープンカーとなって陽差《ひざ》しの下を疾走しているというわけである。幌《ほろ》を付ける余裕もまた無かったのは言うまでもないだろう。雨が降ってきたとこのために雨《あま》合羽《がっぱ》を揃《そろ》えているくらいだ。  僕はまだ教習所に通うお金と時間が無いので無免許のまま、勝手に動くハンドルに手を添えて運転のフリだけしている。  ガニメーデスの運転は、はやる心のあまりか制限速度を無視しがちだ。頼むから僕が無免許で逮捕《たいほ》されるされるようなことはしないで欲しい。 「おわっ! 海だっ!」  琴梨《ことり》が彼方《かなた》を指差して叫び、途端《とたん》に潮《しお》の香りがむわっとする。  海岸《かいがん》線《せん》が見えてきた。        ☆ ☆ ☆  館《やかた》から車で一時間も走っただろうか。その間、不自然な態勢で縮《ちぢ》こまっていた埜々香《ののか》をトランクから救い出し、荷物を取り出しているうちに、琴梨は初めて海を見た犬のように走り出していた。  浜辺で客引きをしていたお婆《ばあ》ちゃんと交渉した後、言われるままについていくと一番手前の海の家に案内された。ビニールバッグを振り回しながら琴梨が一番手、埜々香と凌央《りょう》の手を引いてあろえが続き、最後に巴《ともえ》が浜風になびく髪を撫《な》でつけながら入っていく。  僕は、浮《う》き輪《わ》やらスイカ割り用バットやらスイカ代わりのビーチボール(本物を買うお金はなかった)やらでパンパンの袋と、置いていくな連れてけ連れてけとうるさく鳴いている羊のぬいぐるみを抱えて最後尾を務める。  天空の太陽が、まるでガニメーデスの陰謀《いんぼう》のようにせっせと光り輝《かがや》いていた。        ☆ ☆ ☆  五人五様の水着に着替えて出てきた少女たちを目撃《もくげき》して、ガニメーデスは感動に打ち震《ふる》えているようだったし、僕の心にもそれなりの感動がないでもなかった。全員、素直に可愛《かわい》い。 『どうですか、素晴《すば》らしい光景だと思いませんか? さすがは私!』  ヨダレを垂らさんばかりのガニメーデスが眼球レンズをぐりぐり回している。 「なんでお前がそんな誇らしげに言うんだ?」 『なぜなら水着のデザイン及び縫製《ほうせい》も私がとりおこなったからです。こんなこともあろうかと、お嬢様《じょうさま》がたに最も適切なスイムウェアを計算の上に弾《はじ》き出し、前もって製作しておきました。オーダーメイドのオートクチュールです! もっとも、オーダーされた覚えはありませんが』  僕は五人のまとった色とりどりの水着に視線を這《は》わせた。他《ほか》の四人はいいとして、埜々香のアレは何とかならなかったのか。 『埜々香さんに一番似合う水着はこれなのです。否! これしかない! 他《ほか》に何があると言うのかあなたが何を言おうとも私は意見を曲げることなど決してないでしょう! たとえマザーボードを引っこ抜かれようとも!』  どこにあるのか教えてくれたら今すぐにでも引っこ抜いてやるのだが。 「まあ、似合ってなくはないけどな」  なぜか埜々香《ののか》だけが紺色《こんいろ》スクール水着だった。胸元の白い布に「みすみ」と書いてある。恥ずかしそうにおどおどする埜々香はあろえに引っ張られていた。そのあろえはギンガムチェックのセパレートスタイルで、腰に巻いたパレオをひらひらさせながら、 「わー。海も空も青い青いねぇ。潮干《しおひ》狩《が》りしようよ、晩ご飯になるよ」 「いやっほうっ! 水だっ!」  更衣室から飛び出してきた琴梨《ことり》はカジュアルなボーダーのトップスとベリーショートなカラーパンツ付きボトムスを着ていた——と見えたのも一瞬《いっしゅん》で、砂煙を巻き上げつつ波打ち際に突進、ざぶんと飛びこみそのままどこかに泳ぎ去った。まさか本当にハワイを目指したわけではないと思う。 「あー琴梨ちゃん、ちゃんと準備|体操《たいそう》しないとだめだよ。ね、ののちゃん?」  パレオの柄《がら》同様、あろえの笑顔《えがお》はひたすらにトロピカルだった。 「はう」  灼《や》けた砂浜が熱いのか、埜々香はひょこひょこと跳《は》ねながら、麦わら帽子を被《かぶ》ったあろえに手を引かれている。あろえは荷物の山からラジカセを掘り出してガションと再生ボタンを押した。  よたよたとラジオ体操を踊《おど》る埜々香とあろえ、子供用みたいなフリル付きドット柄ワンピに身を包んだ凌央《りょう》が、 「…………」  と、立ちつくし眺めている。埜々香より三歳上だと感じさせない、見事に裏表なしの非|凹《おう》凸《とつ》ぶりだった。巴《ともえ》と琴梨の成長具合と比べると、あろえを間に挟んでの絶妙なコントラストというか何というか。  巴がすらりとした脚線《きゃくせん》美《び》を見せつけつつ、 「そこの博士の孫のかた、何をぼんやりしているのです。さっさと用意するのです」  最も布地の表面積が少ないのが巴だった。普遍的なビキニだが、首もとを結ぶホルターネットがアクセントを醸《かも》し出している。羽織《はお》ったヨットパーカーで肩と二の腕が隠れているのがやや残念。  彼女が僕に押しつけたのはビーチパラソルとゴザだった。 「はいはい」  僕は持っていたガニメーデスと引き換えにデカいパラソルと丸めたゴザを受け取る。巴は抱かれてぐふぐふ言っているガニメーデスに眉《まゆ》をしかめ、凌央へポイと投げ、凌央は前を向いたままパスを受け、ただ海の彼方《かなた》にぼうっとした目を注いでいた。  僕は適当な場所を求めて浜辺を歩き始めた。        ☆ ☆ ☆  どうやら荷物番は僕ということになりそうだった。パラソルの作る影《かげ》の中、僕は弁当の入った重箱を背にゴザに座りこんでいる。  海から舞《ま》い戻ってきた琴梨《ことり》は、体操《たいそう》を終えた埜々香《ののか》に浮《う》き輪《わ》をかぶせると、 「さあ、のの! 一緒にハワイを目指そうっ」  とか言って、 「や……な……はわ」  泣きそうな顔をするスク水埜々香を有無《うむ》を言わせず海へ連れ去った。みるみるうちに浮き輪付き埜々香は、琴梨のバタ足に押されて沖へと遠ざかって行く。  あろえは、ラジカセを仕舞《しま》うと、 「おかず探してくるね。アサリいるかなあ」  微笑《ほほえ》んだまま、バケツとスコップを手にして波打ち際を掘りだした。喰《く》えそうな貝が出てくるとも思えなかったが、楽しそうにしているから何も言うまい。そのあろえの向こうでは、凌央《りょう》が波に揺られながら仰向《あおむ》けでぷかぷか浮いている。意図はよく解《わか》らないが、それなりに楽しんでいるんだろう。  巴《ともえ》は僕の横でゴザに寝そべっていた。あろえから奪っていた麦わら帽子を頭に乗せ、 「わたしは陽《ひ》に焼けるのを好みませんので」  ガニメーデスを枕《まくら》にして目を閉じている。  波と戯《たわむ》れる他《ほか》の四人——戯れているのは凌央だけか——を巴を横にはべらせて眺めているのは実にいい感じであった。  僕はあらかじめ用意していたサングラスを取り出した。これで気兼ねなく周囲の様子《ようす》を観察《かんさつ》することが出来ると言うものだ。どうやら僕は彼女たちの保護《ほご》者《しゃ》扱いのようなので、こうして監督《かんとく》しないといけないわけである。ガニメーデスのスケベ心とはわけが違う。 「これはダメです」  巴が手を伸ばして僕の顔からサングラスをひったくった。 「目《め》線《せん》を隠してわたしたちをジロジロ眺めるつもりでしょうが、そうはいきません」  せっかくイイワケまで用意したのに。  巴は自分にサングラスをかけて、 「わたしが預かります。眼球の紫外線|避《よ》けにちょうどいいですわ」 『目論《もくろ》見《み》が外れて残念ですね。後のことは私にお任せください。あなたの代わりに私のこの超精密レンズがお嬢様《じょうさま》がたの魅惑《みわく》の肢体をくっきりと焼きつけ保存し後世に残るお宝映像として——』  ずぼっ、と音がして逆さになったガニメーデスが砂に突き刺さった。巴が掌《てのひら》を払う。 「そうしておりなさい。帰り際《ぎわ》に拾ってあげます」  くぐもった電子音声が砂の下から、 『ご無体《むたい》な! 暗い! とても暗いのですよ巴《ともえ》さん! おおっ隙間《すきま》から砂がッ! レンズに傷がッ! これでは何も記録《きろく》できません!』 「しなくてけっこうです」  巴は麦わら帽子をガニメーデスの尻に載《の》せ、僕を睨《にら》む。 「あなたもです。よこしまな目で見ないようにしてください」  だったらパーカーの前を閉じればいいのに。白い谷間が気になってしょうがない。 「よこしまじゃなければいいの?」  試しに訊《き》いてみたところ、 「最初から見なければいいのです。どうぞ青い空を存分に見上げていればよいのですわ」  僕は波打ち際をスコップで掘っているあろえと、クラゲのように浮いている凌央《りょう》と、水平《すいへい》線《せん》の彼方《かなた》に消えようとしている琴梨《ことり》と埜々香《ののか》を眺め、最後にグラサン越しにこっちを睨みつけている巴を見て、しかたなくゴザに仰向《あおむ》けになった。ビーチパラソルの縁《ふち》が浜風で揺れている。  何というか……  のどかな気分だった。        ☆ ☆ ☆  しばらくそうしていると、 「ひーくん、あたしにオイル塗れ!」  琴梨の命令|調《ちょう》で起こされた。いつの間に上がってきたのか、前髪から海水の雫《しずく》を垂らしながらサンオイルの容器を突き出している。 「背中に塗って欲しいのさ! 自分じゃ届かないからねっ」 「だめですっ!」  これは巴。 「そんなもの、わたしがいくらでも擦《す》り込んであげます。この人に言ってどうします」 「だって巴は乱暴だし爪《つめ》長いしさ。ひーくんのほうがマシな手つきをしてるよきっと!」 「あなたはこの人を何だと思っているのですか?」  怖い顔で巴は琴梨を睨みつける。 「若い男じゃん」  あっけらかんと答える琴梨。 「そうです。だからだめなのです。簡単《かんたん》な話ではないですか」 「やれやれだねっ!」  琴梨《ことり》は僕と巴《ともえ》の間にごろんと横たわり、 「巴の男嫌いは昔からだねっ! そろそろ直したほうがいいと思うなっ!」  やれやれと言いたいのは僕のほうだけど。僕はサングラス越しに睨《にら》んでるっぽい様子《ようす》の巴に尋ねた。 「男がダメになった嫌《いや》な記憶《きおく》でもあるの?」  そっぽを向くかと思ったら、巴はため息をついて深々とうなずいた。意外な反応だったので、僕は少々虚をつかれた。  巴はしみじみした口調《くちょう》で、 「そうです。消して無かったことにしたいほどの、忌《い》まわしい記憶がございます」  そして空を見上げるように、 「そう、あれは十年ほど前のことでした」 「十年前?」と僕。 「わたしがまだ幼稚園に通っていた時代の出来事です。わたしはある男性と恋仲になり、結婚の約束までしていたのです」  舞台《ぶたい》俳優《はいゆう》みたいな口調で言い出した。 「幼稚園児で?」 「そうです。相手は同じスミレ組の……名を仮に山《やま》ノ内《うち》氏としておきましょう。しかし彼は卒園と同時に引っ越していってしまいました。わたしに『いつか白い馬に乗って迎えに行く。それまで待っていて欲しい』と言い残して……。わたしは固くうなずきました」 [#挿絵画像 (01_117.jpg)] 「なるほど」と僕は拝聴《はいちょう》する。 「再会はそれから二年ののちでしたわ。忘れもいたしません。近所の児童公園で、山《やま》ノ内《うち》氏(仮名)を偶然に見かけたのです!」 「ほほう」  それくらいしか言うことない。 「彼は再度の引っ越しによって、近所に帰ってきていたのです。なのにわたしに連絡一つよこさなかった……、いえ、それはまだいいのです。許し難《がた》かったのは、彼の横に一人の女性が仲むつまじげに寄り添っていたことでした!」 「はあ」と僕。  すぐ横に、琴梨《ことり》の今にも吹き出しそうな笑顔《えがお》がある。 「詰問《きつもん》するわたしに彼はこう言いました。『やあごめんごめん。僕、この人と結婚する約束しちゃったんだよね。悪いけどキミとはできないよ。ほんとごめんね』……と」 「ふうん」と僕は適当な返事。  巴《ともえ》は大袈裟《おおげさ》な身振りで、 「……泣きました。泣き濡《ぬ》れましたわ。涙で枕《まくら》が重くなるほどでした。わたしはそれ以来、男の語る言葉をいっさい信用しなくなったのです。お解《わか》りでしょうか」 「非常によく解ったよ」  ようするにその山ノ内氏(仮名)推定五歳のおかげで、生物学的に男の範疇《はんちゅう》に属する一切が、そして僕までもが巴からすべての信用を失っているということのようだ。 「しかも!」と巴は叫んだ。  まだあるのか。 「その時の相手の女というのが、この女なのです!」  そう言って指差した先には、白い歯も眩《まぶ》しい琴梨の満点笑顔があった。けらっけらっと笑い声を上げた琴梨は、 「山ノ内くんねっ! 懐《なつ》かしいなあ! でもつまんない奴《やつ》だったなっ。三日くらいで飽きちゃったね!」 「琴梨が三日で捨てるような男を、わたしはずっと想《おも》っていたのです! この衝撃《しょうげき》の事実を知ったとき、わたしは寝込んでしまいました。敵はわたしのすぐ側《そば》で悪魔《あくま》の笑みを浮かべていたのですわっ! 裏切り行為です!」 「すぐ側って隣《となり》り同士じゃん。巴とは長い付き合いだねっ! 保育園からかなっ?」  この二人は幼《おさな》馴染《なじみ》だったらしい。僕も初めて知った。巴は再びの嘆息。 「まさか高等部までずっと同じクラスになるとは思いませんでしたわ。おまけに同じように正義の味方の仲間にまでなってしまうとは。わたしはいつになったら琴梨《ことり》と離《はな》れることができるのですか?」  そう言えば、と僕は思いついた。 「ところでさ、巴《ともえ》と琴梨もそうだけど。他《ほか》の三人も実家には何て言ってんの? 爺《じい》さんの屋敷《やしき》で暮らしていることをだよ。親がよく許したな」  巴はつんと唇を尖《とが》らせた。 「わたしたちは建前として英才教育を受けていることになっています。稀代《きだい》の天才学者である博士が我々の才能を見いだし、それを伸ばすために我々を手ずから教育しているということなのですわ」  琴梨が後を引き取った。 「ま、博士はこの街では有名だからねっ! 信頼されてるしさっ。あたしは面白《おもしろ》いからこっちのほうがいいよっ。ののも巴もあろえも凌央《りょう》も、あたしは好きだしねっ!」  巴は琴梨を横目で一瞥《いちべつ》し、 「そういうわけで、わたしたちは実家を離れ、一堂に会しているというわけなのです」  なるほどね。爺さんがナントカと紙一重な天才なのは知っていたが、それが街の住民の尊崇を集めるほどだとは知らなかった。 「それよりさっ! 昼飯にしようよっ! あたしはもうペッコペコだっ!」  琴梨の言葉に、僕は腕時計に視線《しせん》を送った。確《たし》かに昼飯時だ。タイミングよく、あろえがバケツを振り振り戻ってくるのが見えた。僕は琴梨に、浮いたままの凌央を連れてくるように指示し、もたれていた重箱から体重を移動させた。        ☆ ☆ ☆  あろえが報告した。 「アサリもハマグリもいなかったよ」  バケツの中を覗《のぞ》いてみると、小さなカニが一匹でウロチョロしていた。あろえは笑顔《えがお》で、 「かわいそうだから後で海に帰してあげるね。オカズになりそうにないしねえ」  カサコソしている子ガニもさぞかしホッとしたことだろう。  緊縮《きんしゅく》財政のあおりを受けて、重箱に詰まっているのはおにぎりだけである。量ったように同じ形をしているのが凌央の手によるもので、いびつなのがあろえと埜々香《ののか》だ。  おかずはインスタント味噌《みそ》汁《しる》だけという質素さで、でもまあ、なぜか不思議《ふしぎ》に美味《うま》い気がするのは何かの欲目だろうか……などと考えていると、人数が欠けていることを発見した。 「そういや、埜々香は?」  琴梨は頬《ほお》をパンパンに膨《ふく》らませ、米粒を飛ばしながら目を見開いた。 「あっ! 忘れて来たっ!」 「忘れて来たって……どこに?」 「あのへんだねっ」  琴梨《ことり》の人差し指は、真《ま》っ直《す》ぐ水平線を指していた。  その十五分後、琴梨に抱えられて戻ってきた埜々香《ののか》は泣きべそをかいていた。よほど一人で沖合いをぷかぷかしているのが怖かったのだろう。ゴザに座りこんで浮《う》き輪《わ》を離《はな》そうとしない。海嫌いになってなければいいんだけど。  琴梨と埜々香の組み合わせは問題があるな、と僕は思った。今後気をつけよう。かと言って、誰《だれ》と誰を組み合わせればコンビプレイを発揮できるのかも考え物だ。凌央《りょう》と琴梨《ことり》、あろえと埜々香はすでに問題を露呈《ろてい》しているからな。あろえと琴梨、琴梨と巴《ともえ》……。うーん、どれが最善だ? 『お食事中すみませんが』  ガニメーデスが目をピカピカ光らせた。 『突然ですがまたまたEOSが出てきたようです。カサンドラが自信たっぷりに伝えてきました。どうやらすでに出現後のようですな』  僕たちは握り飯を齧《かじ》る手を止めた。 『しかも今回のEOSはなぜか高速移動中です。反応が北東の方角へ遷移《せんい》して行っておりますな。なんですかね、これ』 「場所は?」と僕。 『発生地点は屋敷《やしき》のすぐ近所ですが、現在は十キロほど離《はな》れた公道上ですね。今も移動中です。もう少しすれば詳しい状況が入ってくると思いますが……ああ、解《わか》りました。どうやらEOSは幼稚園の送迎バスに取りついて暴走《ぼうそう》させているようです。どうします?』 「どうするも何も、さっさと帰らないといけないだろうな。海水浴は中止だ」 『ああ……その解答を恐れていたのです。せっかくの水着姿がこれだけしか拝めないなんて。これからがいいところだというのに……』  ガニメーデスの嘆きをBGMに、五人はすでに手早く荷物をまとめ始めていた。 「急ぎましょう」と巴。「時間が経《た》つにつれて事態は悪化します」  ゴザとビーチパラソルはそのまま置いていくことにして、津波から逃げるように僕たちは路駐《ろちゅう》していたオープンカーに駆け寄った。 「どうせこんなことになるだろう思って、荷物に混ぜておいたのですわ」  巴がトランクから取り出したのは、いつもの戦闘《せんとう》用《よう》コスチュームと数々のアイテムだ。  水着のまま車に乗り込んだのは埜々香を除く四人と僕とガニメデ。埜々香はトランクに押し込められた。閉める間際、あろえは埜々香に、 「一人で着替えられる?」  と、心配そうに訊《き》いていた。        ☆ ☆ ☆  それにしたって、なんで幼稚園児のバスジャックなんかEOSはするんだろう。そんなことをしてどんな目的が果たせると言うんだ。今どき戦隊ヒーローものでもそんな展開はないぞ。 『EOSの目的はずっと不明ですし、おそらく明らかになる機会《きかい》もないと思われます。単なる自然現象と思っておいたほうがいいでしょう。たまたま送迎バスに出現してしまったんでしょうな。私は幼児にはあまり興味《きょうみ》がありませんが』  誰《だれ》もガニメーデスの趣味《しゅみ》なんぞ気にしてない。もちろん巴《ともえ》たちもガニメーデスに耳を貸すことなく、所定の座席に納まっていた。それぞれ自分の衣装とアイテムを持って。  そうこうしているうちに車は急発進、ガニメーデスの荒っぽい運転で、たちまち海が背後へ消える。彼女たちの衣装は水着の上から直接まとうだけにした。ガニメーデスは残念そうだったが、オープンカーでは完全な着替えは無理だろう。それも狭い車の中、しかも走行中とあって被《かぶ》るだけでも四苦八苦だ。  おまけに公道に入ってからのオープンカーは、故ジル・ビルヌーヴの霊がエンジンに憑依《ひょうい》したかと思うような勢いだった。 「おい、もっと安全運転を心がけろ」 『非常に安全です。私のドライビングテクニックを信用してください。現在この車はワールドラリーチャンピオンシップモードで制御しています』 「何それ——おうわっ!」  交差点をほぼ九十度で右折、シートベルトをしているにもかかわらず僕は助手席の巴に押しつけられた。半分水着姿の巴はやたら温かくて柔らかい。 「なななっ! 何をするのです! 離《はな》れなさい!」  犯人は遠心力なので文句なら慣性《かんせい》の法則に言って欲しい。僕はちょっと感謝《かんしゃ》したい気分になっていたけど。  車が直線に入ったところで、巴は尻尾《しっぽ》を踏まれた犬みたいにきゃんきゃんと、 「今度わたしに抱きつくようなことをすれば告訴も辞しません! 未必の故意ですわ! 立派な犯罪です! 慰謝《いしゃ》料《りょう》が発生しま——っっっああ!」  今度は強烈な左折。シートベルトをしていなかった巴は僕のほうに飛んできた。ぎゅう。横Gの中、巴は浅瀬《あさせ》の鯉《こい》のように声もなく口を開閉させている。  それはさておき、トランクの中の埜々香《ののか》が気がかりだった。 「おい、いったん止めろ」 『何故《なぜ》ですか?』 「埜々香が心配だ。たぶんあちこちぶつけまくってるんじゃないか?」 『いるようですな。心配しなくとも、埜々香さんならとっくに失神しておられます。身体情報をモニタしておりましたが、心拍と呼吸を示すデータがそれを教えてくれています』 「それのどこを心配しなくていいんだ?」 「任してっ! あたしが持ってくるよ!」  早着替えを終えた琴梨《ことり》がスケボーを放り捨てるように宙に投げ、続いて自分も飛び出した。空中でスケボーに乗った琴梨は、そのままの勢いでアスファルトに着地しばらく車と併走してから後部に回る。 「ひゃっほ!」  ほどなく琴梨は、手足をぶらぶらさせる埜々香《ののか》を抱えて元の位置に来た。器用にスケボーごとジャンプして、凌央《りょう》の隣《とな》りにすとんと着地。その間、凌央は瞬《まばた》きもせずに前だけを見つめている。  僕は運転のフリを放棄して、後部座席に振り向いた。  どうやら途中まで悪戦《あくせん》苦闘《くとう》したことは伝わってくる。埜々香は水着の上からコスチュームを半端な感じで身体《からだ》に巻きつけ、苦悩の表情で失神していた。しっかりとリコーダーを握っている。その努力はかってやりたい。あとでキャンディーバーでも奢《おご》ってやろう。 「ふあ。やらかい」  あろえが楽しそうに埜々香に衣装を着せてやっていて、その横で、 「…………」  と、凌央が前を向いている。  ガニメーデスの運転もデタラメだったが、もっとデタラメなのは信号だ。この車が走っている道はオールグリーン、どこの交差点に差し掛かってもすべて青になっている。 『交通管制システムに侵入して操作《そうさ》していますから。ちなみに対象の幼稚園バスの進む先も全部青で統一しています』  ダッシュボードの上で、羊が目をくるくると回している。 『EOSが何を好きこのんで園児たちのバスを乗っ取ったのかは知りませんが、現在そのバスは国道上を道なりに暴走《ぼうそう》中《ちゅう》です。放っておけばすぐさま事故を起こすでしょう。私がそれを防いでいるのですよ。少しは褒《ほ》めてくれてもよさそうなものですが』 「えらいえらい」  あろえがスケッチブックを片手に言った。 「幼稚園児さんたちは無事なの?」 『無事のようですな。車体の後ろの方に集まっているようです。EOSは人間にはあまり興味《きょうみ》がないようですね』  超絶なスピードで疾走するガニ車は、行きの十分の一くらいの時間で、僕たちの街へと戻ってきた。対向車もほとんどない。 『警察《けいさつ》に協力を要請《ようせい》しました。我々とバスの行く先で、邪魔《じゃま》な車輌《しゃりょう》の通行を止めてもらっています』  便利なものだと感心するヒマもなく、幼稚園のバスが見えてきた。スピードを上げたガニ車が横に並ぶ。スピードメーターは時速百三十キロを差している。  首を伸ばしてバスを見る。小型の送迎バスだ。後ろのほうに園児たちと若い保母さんが固まっているのが解《わか》る。運転手が必死になんとかしようとしている姿が見て取れた。 「……また、あれか」  車体からいくつものピンク色の触手が生《は》えている異様な光景はお馴染《なじ》みのモノだ。すでに見慣《みな》れたEOSの半透明な触手。開け放たれた窓からは、園児たちの怯《おび》え切った泣き声が聞こえる。 「うう……ん……」  か弱い呻《うめ》き声が聞こえて、僕は後部座席に首を向ける。埜々香《ののか》が目を覚ましていた。きょときょとと周囲を見回し、僕と目が合った末にうつむく。僕は対策を考えながらガニメーデスに言った。 「EOSの <核> はどこだ?」 『車体の中央ですね。比較的小規模のEOSですが、やり方が狡猾《こうかつ》です。まさか純粋|無垢《むく》な園児たちを盾に取るとは。これでは外から攻撃《こうげき》できませんね』 「すると、バスに乗り移ってやっつけないといけないんだな」 『そのようですな。問題は、どのようにして乗り移るかということです』  ギリギリまで車を寄せるのは危ない。もし送迎バスが急にハンドルを切るようなことがあれば、車体差から見てこっちが弾《はじ》き飛ばされることになるだろう。かと言って、ガス欠を待とうにも果たしてガソリンが切れたらバスも止まるという保証もなく、そのうち公道を逸《そ》れてどこかに突っ込むかもしれない。ようするに時間がない。  僕が考えていると、琴梨《ことり》が気楽な口調《くちょう》で言った。埜々香に。 「さ、行こっか!」 「ええ!?」  止める間もなかった。  気絶から醒《さ》めたばかりの埜々香を抱え、琴梨は時速百三十キロで走る車から飛び出した。 「そいやーっ!」  ぎょえーとか言っているのは埜々香の悲鳴か。  あいにく琴梨は慣性《かんせい》の法則を知らなかったようだった。疾走する送迎バスと車はちょうど歩道橋を目前にしており、盛大にジャンプした琴梨(と抱えられた埜々香)は、時速百三十キロで歩道橋に激突《げきとつ》した。  凄《すご》い音がしたように思う。慌てて後部を見た僕の目に、埜々香を抱いた琴梨とスケボーが弾き飛ばされるように落下していくのがチラッと見えた。なんかシャレで終わりそうにない鈍い音がしたぞ。 「おいガニ、ガニ!」 『甲殻動物のような略称は止めて欲しいですね。あのお二人なら大丈夫ですよ。Dマニューバの対|衝撃《しょうげき》シールドが展開中です。悪くても軽度の打撲《だぼく》くらいでしょう。埜々香《ののか》さんはまた気を失っているようですが』  失神から覚醒《かくせい》した一分後にまた失神するとは何と不憫《ふびん》な。後で三段重ねアイスでも奢《おご》ってやろう。  スケッチブックを前にして「うーん」と唸《うな》るあろえを見ているうちに、僕の頭に天啓が訪れた。閃《ひらめ》きがセリフとなって出る。 「あろえ、ハシゴを描《か》くんだ。なるべく頑丈そうなやつを」  あろえは僕を大きな目で見つめ、 「うん」  うなずいて、鉛筆を動かし始めた。  巴《ともえ》は竹刀《しない》を肩に掛けて無念無想中、凌央《りょう》は小首を傾《かし》げて筆を構えてじっとしている。その凌央にも、僕は提案した。 「とにかく、バスの速度をなんとかしてくれ。これじゃ飛び移れないぞ」  凌央の瞬《まばた》きしない目が僕に向く。うなずいたとも思えなかったが、凌央は戦闘《せんとう》服《ふく》の前ボタンをポンと押してDマニューバ <でうかりおん> を起動させ、そのまま持っていた筆をつつっと上げると空中に筆先を走らせた。青白い軌跡が文字を作り上げる。達筆の輝《かがや》く光る線《せん》は、『制限時速』という四文字を一筆書きしたものらしかった。ふわふわ漂っていた『制限時速』は、凌央が合図をしたわけでもないのに飛び上がり、一直線に小型バスに突撃した。ピンク色に覆《おお》われたバス表面に青いフラッシュが瞬《またた》く。突然の減速。ガニメーデスはきっちり相対速度をゼロにすべく、オープンカーに強烈な制動をかける。毎時百三十キロがいきなり四十キロへ。 「わーわわっ」  後部座席でスケッチブックを広げていたあろえが進行方向に吹っ飛び、彼女の頭が僕の後頭部を直撃した。がつん。痛い。  凌央もまた吹っ飛んで、運転席と助手席の間に身体《からだ》を投げ出してきた。今度はシートベルトを締《し》めていた巴一人で無事。 「後は乗り移って <核> を破壊《はかい》するだけです」  髪をはためかせて竹刀を掲《かか》げている。 「ですが、あの状態では近寄れませんわ。触手をなんとかしないと」  送迎バスから発生した蛍光ピンクの半透明な蔦《つた》とも管とも言えそうなモノが、波に揺れるイソギンチャクみたいにふらふらしている。無理に飛び移ろうとしても、この触手で撫《な》で斬《ぎ》りされるのがオチだろう。  それに、この娘《こ》たちの能力は連発がきかない。巴の口頭必殺技は <核> への一撃に取っておくとして、凌央《りょう》の筆文字はもう使ったし、あろえにはハシゴを描《か》いてもらわねばならないし……。 『やほーいっ! 遅れてごめんよっ! ただいま参上!』  カーステから琴梨《ことり》の明るい声が届く。バックミラーを見ると、猛烈な勢いでスケボーを走らせて接近中の琴梨と、その片手にぶら下げられた埜々香《ののか》の姿が映っていた。僕はとっさに言った。 「琴梨、埜々香は目を覚ましているか?」 『んーっ? のの、起きてるかいっ?』 『あわわわ……』  そりゃよかった。僕は全員に言い聞かせるように、 「埜々香の精霊《せいれい》犬《けん》でEOSの触手を攻撃《こうげき》してくれ。その間にあろえはハシゴを作ってバスとこの車を繋《つな》ぐ。巴《ともえ》はそれを渡ってバスに侵入し、 <核> をぶち抜くと、そういう作戦はどう?」 「……ま、よいでしょう」  巴が不詳不承という感じで答える。 「聞こえましたか? 埜々香、あろえ、そのようにしなさい」 「はぁい」  絵を描《か》きながら返事をしたのはあろえで、埜々香は返事の代わりにたどたどしい演奏を送ってよこした。  どんぐりころころどんぶりこ。  琴梨のスケボーがアスファルトの段差に乗り上げるたびに音が飛んでいる。だが、三匹のシグナル精霊犬も飛んでいた。埜々香を持った琴梨は、バスのすぐ後ろについている。琴梨は楽しそうに笑っているが、時速四十キロで走るスケボーに乗らされている埜々香には恐怖|体験《たいけん》以外の何ものでもないだろう。  埜々香の操《あやつ》る <すきゅら> <らいらぷす> <けるべろす> の三匹は、比較的|真面目《まじめ》な飛び方でバスから生《は》えるEOSに襲《おそ》いかかった。精霊犬たちがぶつかった一瞬《いっしゅん》、EOSの触手も消え去る。放っておくと再生するが、今は時間を稼《かせ》げればいい。 「でーきたっ」  あろえの喜ばしい声とともに、スケッチブックが光に包まれた。形をぐにゃぐにゃと変えていく。再び固定されたとき、あろえの前には……まあ、ハシゴなんだろうが、出来損ないのアミダクジみたいなものが立っていた。 「うんしょ」と言いながら、あろえは縦横《たてよこ》二本のアミダクジ状ハシゴをバスに立てかけようとする。危なっかしいことこの上ない。 「凌央、手伝ってやってくれ」  僕の依頼に、前席シートの間でじっとしていた凌央がようやく身体《からだ》を起こした。黙《だま》ってあろえのハシゴに手を添えてやる。 『お急ぎください。あろえさんの実体化能力の持続時間は平均約三分です』  ガニメーデスの注意を聞きながら、僕は巴《ともえ》にうなずきかけた。巴は心持ち真剣な顔つきでシートベルトを外した。 「それでは行って参ります。あろえ、凌央《りょう》。手を離《はな》さないでくださいよ」  竹刀《しない》を背中に刺し、巴はハシゴに手を掛けた。埜々香《ののか》の必死の演奏がスピーカから響《ひび》いている。ただし、息も絶え絶えなリコーダーの調《しら》べだ。心なしか精霊《せいれい》犬《けん》たちの動きも鈍くなっている。 「巴」  思わず僕は声をかけていた。 「気をつけてな」  長い髪を風に踊らせている少女は振り返らず、 「言われなくても解《わか》っております。それより、こちらを見上げないように、いいですね?」  とだけ言って、慎重にハシゴを登り始めた。彼女の行く手では精霊犬三匹をうるさそうに相手しているEOSの触手たちが待ち受けている。バスの窓が開いているのは幸いだった。ガラスを破る必要がないから。  開けっ放しの窓からは、園児たちの心細そうな泣き声が相変わらずに漏れ聞こえている。  コスチュームの裾《すそ》をばたつかせつつ、巴は一段一段、いびつな橋げたを上がっていく。旋回する埜々香の犬たちがそれを援護《えんご》。しかし埜々香も長く保《も》ちそうにない。 「だいじょうぶだって!」  琴梨《ことり》の声がすぐ横から聞こえた。いつしか、埜々香を下げた琴梨は車の隣《とな》りを走っている。 「巴は昔からしっかりもんだからね! あたしはよく知ってるよっ。何だかんだ言いながら、巴はしないといけないことはちゃんとするよっ!」  琴梨は口をでっかく開けて笑顔《えがお》。 「それ以外のことは何もしないけどさっ!」  余計なセリフが聞こえたかどうか、巴は長い脚をじたばたさせながら、幼稚園バスの中に上半身を突っ込んでいた。EOSの触手がふらりと持ち上げられる。目障りな羽虫を叩《たた》きつぶそうというような意思が感じられた。 「巴、急げ!」  そう言うくらいしかできない。精霊犬たちは超過勤務を抗議《こうぎ》するように光を明滅させて今にも消えそうになっている。それはあろえのハシゴも同様だった。  間一髪、巴は車内に転げ落ちて、EOSの攻撃《こうげき》は空を斬《き》った。  ここからでは園児たちの反応は解らないが、いきなり窓から入ってきた巴を見てどういう感想を持ったかな。とりあえず泣き声はやんだみたいだけど。  バスの中ですっくと立ち上がった巴《ともえ》が見えた。きりりとした目でバスの床を睨《にら》みつけ、 「ガニメーデス!  <核> はどこです!?」 『巴さんの位置から、正確《せいかく》に三十センチ下方のところです』  ガニメーデスの答えを聞くなり、巴の身体《からだ》に燐光《りんこう》が発生した。  閃光《せんこう》一閃、巴は逆手《さかて》に握った竹刀《しない》を、 「超烈|竜《りゅう》撃《げき》虎《とら》虎大河アタッ——ク!」  と聞こえる技名を叫びながら突き刺した。  その瞬間《しゅんかん》、送迎バスの周囲にまとわりついていたマゼンタピンクの触手群がいっせいに崩壊《ほうかい》を始めた。粉々になったガラス片のようにさらさらと、煌《きら》めいて消失していく。それだけはいつ見ても荘厳《そうごん》に綺麗《きれい》なシーンだ。 『 <核> の消滅を確認しました。コントロール戻ります。巴さん、運転手のかたにお伝えしてください。You Have Control』 「解《わか》りました」  短く言って巴は運転席のほうへと歩き出す。その姿は、どんな贔屓《ひいき》目《め》を抜きにしても、颯爽《さっそう》として見えた。        ☆ ☆ ☆  幼稚園バスはゆるやかに路肩《ろかた》に止められた。開いたドアから、黄色い帽子をかぶった園児たちが転げるようにして出てくる。巴も出てきた。その両手には複数の園児たちが笑顔《えがお》でぶら下がっていた。巴はどんな表情をしていいのか困っているような顔をしている。普通に笑えばいいのに。  バスを先導《せんどう》するように止まっていたオープンカーから、あろえも飛び出して行った。 「よかったよかったねぇ。こわかったねぇ」  あろえもまた園児たちに取り囲まれて、衣装を引っ張られていたりする。そこにスケボーをガリガリさせて琴梨《ことり》が急停車、 「やあみんなっ! 元気だったかい!」  琴梨は持っていた埜々香《ののか》の身体《からだ》を地面に置くと、もみくちゃになっている巴とあろえの仲間入りをした。 「おねーちゃんたち、ありがとー」  と、声を揃《そろ》える園児たち。埜々香もあっという間に何人もの幼稚園児にしがみつかれ、あわあわしている。普段《ふだん》はおねーちゃんなんて呼ばれることもなさそうだしなぁ。  凌央《りょう》は——。  ガニ車にもたれて彼女たちを見守る僕と並ぶように、すぐ横にいて身じろぎせずに立っていた。 「お前も行ったら?」  そう言った僕の言葉も聞こえなかったのか、凌央《りょう》はただじいっとして見ているだけだった——が、その大理石製の天使像のような横顔が少しだけ変化したように思えた。  唇から一瞬《いっしゅん》だけ覗《のぞ》いた白い部分は、ひょっとしたら八重《やえ》歯《ば》だったのだろうか。しかしそれを確《たし》かめる前に、 「凌央ちゃんも来なよ。みんな可愛《かわい》いよ」  あろえに連れられて、凌央も黄色帽の中に埋没した。園児たちの中でふらふらしている凌央は、やっぱりいつものように無表情に、ボンヤリしているようだった。八重歯は見間違いだったのかな?  琴梨《ことり》が子供たちをジャグリングするように放り投げては歓声を上げ、埜々香《ののか》は立ち往生、巴《ともえ》は頬《ほお》をぴくぴくしながら、あろえは満面の笑みで特に可愛らしい幼児の頭を撫《な》で回していた。        ☆ ☆ ☆  別れを惜しむ園児たちに手を振りながら、オープンカーはUターン。琴梨の「まだ泳ぎ足りないっ! おむすび食べかけだしっ!」という叫びによって、再び海を目指している。 『それでは皆さん、海岸まで快適なドライブを。到着まではこの私の美声をお楽しみください。題して “海岸線のミューズ ”、私の魂が込められた愛の歌です』  カーステからこだまし始めた調子《ちょうし》の狂ったテクノ演歌など、もちろん誰《だれ》も聞いていない。巴はグラサンをかけた顔を左側に向けて、 「今回はわたし、がんばりすぎました。特別料金をいただかねばなりませんわ。それに、海の家で味気なくて金額《きんがく》のかさむレトルトカレーを食べるという海に付き物の行事をまだやってません」 「あたしは焼きそばがいいなぁ」とあろえ。 「…………」と凌央。  埜々香の意見は聞けそうにない。またとランクルームに入っているから。海に着いたらかき氷でも奢《おご》ってやるとしよう。  それにしても……そろそろ本気でバイト先を考えないといけないな。        ☆ ☆ ☆  ところで海水浴のきっかけとなった凌央の「うみ」という一声だが、のちのち聞いたところによると、 「海に猫を連れて行きウミネコと鳴き声比べをしたくなるほど今日は暑い日だ。まだ六月なのに」  ということを言いたかったらしい。どうやったらそれが「うみ」の一言に省略できるんだ? そもそもそれにどんな意味があるんだ? 海に行くのは間違っていなかったからいいけど。  さて、僕らは次に、どこに行くことになるんだろうか。屋敷《やしき》のエアコンが直るのはいつの日になるのだろうか。夏はいつまで続くのだろう。夏休みになったら彼女たちは実家に戻るつもりなんだろうか。  そして——爺さんはいつになったら戻ってくるのだろうか。  僕は五人の喰《く》いっぷりを見ながら、そんなことを考える。 [#挿絵画像 (01_141.jpg)]  第四話 『微笑み鎮痛剤』  五人と一機《いっき》との共同生活も数ヶ月目を迎えていたが、いつも毎回の朝飯時は騒々《そうぞう》しい。今日も同様の光景が繰《く》り広げられていた。 「メシだっ!」  一際大声を出しながら笑っているのは琴梨《ことり》で、その横には無表情な凌央《りょう》がどことも知れない空中をただ凝視《ぎょうし》しており、さらにその隣《とな》りでは巴《ともえ》が朝刊に目を近づけて読んでいる。  その三人とも、ダイニングに来るなりさっさと椅子《いす》に座り、そのまま一歩たりとも立ち上がる気はないようだ。よって、僕の朝食作りを手伝ってくれているのは残りの二人、あろえと埜々香《ののか》だけだった。 「ののちゃん、お皿|熱《あつ》い熱いよ。注意注意だよ」  僕から受け取った皿をあろえは埜々香に渡してやっている。ちなみに、あろえの仕事はこれだけである。 「あわ……」  埜々香《ののか》は緊張《きんちょう》に震《ふる》える両手で皿を捧《ささ》げ持ち、ぎこちない動作で食卓へたどたどしい足取りで進んでいた。  と言ってもメニューは食パンと目玉焼きと飲むヨーグルトの三品であり、調理《ちょうり》担当は僕のみであり、あろえと埜々香はただただキッチンとダイニングを往復するだけの給仕係でしかない。  埜々香は調理台に背が届かず、あろえに何かやらせるのは危なっかしすぎる。巴《ともえ》は言ってもしてくれないし、凌央《りょう》は何を考えているのか解《わか》らない。琴梨《ことり》に至っては何もしないでいてくれたほうが物事は正しく進み、そういうわけで今日もまた僕は似合わない前掛けなんぞをしながら朝飯を作っていたりするのであった。慣《な》れたと言えば慣れてきた。 「それにしてもメニューがいつまでも偏《かたよ》っているのはなぜなのです?」  新聞のスポーツ欄《らん》から目を離《はな》し、巴が仏頂《ぶっちょう》面《づら》で言った。 「たまにはもっとゴージャスな朝食があってしかるべきなのではないでしょうか。目玉焼きと卵焼きとスクランブルドエッグの繰《く》り返しでは、いいかげん飽きがきますわ」  そんなこと言っても、僕のレパートリーには他《ほか》にはゆで卵くらいしかない。 「卵以外にも何かあるのではございませんかしら。たとえば、クロワッサンとトルココーヒーにシーザーサラダなどなど」  クロワッサンはともかく、他の二品の作り方なんか僕は知らない。僕が最も重視しているのはコストパフォーマンスという部分なのだ。残り少ない爺《じい》さん貯金をやりくりしている僕の苦労も少しは考えてもらいたい。 「わたしたちの美容と健康も考えていただかないと困りますわ。最近髪の艶《つや》が無くなってきたような気がするのは、これはいったい何に起因しているのでしょうか」  なおも言ってくる巴に僕は肩をすくめるしかなく、 「さあ」  たぶん食べられそうなものが出てきそうにない。自分で作ってくれたらいいのだけれど、それは見果てぬ夢だった。僕が爺さんの発明品に自動|調理《ちょうり》装置はなかったかと考えていると、  がちゃん、と鼓膜《こまく》に響《ひび》く音がした。見ると埜々香が運んでいた目玉焼きの皿をひっくり返して、自分も転《こ》けていた。順序が逆かな。  奇《く》しくもそれは巴の分が載《の》った皿であり、すかさず巴の鋭《するど》い声が飛んだ。 「埜々香! 何て事を!」 「うう……ご、ごめんな……さ、」  縮こまる埜々香に巴は、 「わたしに謝《あやま》ってどうします、この卵を産んでくれたニワトリさんに謝るのです!」  泣き顔の埜々香《ののか》は床に落ちた目玉焼きに向かって深々と頭を下げた。 「ごご……ごめ……」  あろえがひょいと埜々香の横にしゃがみこんで、ひっくり返った卵焼きをつまみ上げた。 「だいじょうぶだいじょうぶ。ニワトリさんも許してくれるよ。お願いしたらまた産んでくれるよ。これは猫にゃんたちにあげようね。ねっ」 「……ううう」 「ニワトリはいいかもしれないけど」  僕は指摘した。 「冷蔵《れいぞう》庫《こ》にもう卵はないよ。それが最後のだ」  すると、あろえがこう提案した。 「そうだ。みんな、ちょっとずつ巴《ともえ》ちゃんに分けてあげようよ」 「えっ! もうないよっ!」  琴梨《ことり》は目玉焼きを一口で飲みこんでしまったようで、 「もっと早めに言ってくれなきゃ困るさ! ごめんよ、巴!」 「あなたには期待していません」  巴はむっつりと言って恨めしげに床を見る。庭から上がりこんできた猫数匹が期待にそわそわしながら卵の行方《ゆくえ》をうかがっていた。  床に手をついて涙目になってしまった埜々香を宥《なだ》めるのも一苦労だった。巴はそっぽを向いているし、凌央《りょう》は自分の皿を黙々《もくもく》と見つめているだけだし、琴梨はと言えばまったく周囲の情景が目に入っていないのか、すでにすべてを平らげて席を立とうとしているところだった。 「ごっそーさん! じゃ! あたしは朝錬があるからっ」 「何のクラブをやってるんだっけ」  訊《き》いた僕に琴梨は元気よく、 「ラクロスと女子サッカーと雪合戦同好会! そっからたまに陸上部! 今日はどれだったかな? 行けば解《わか》るさ!」  そう言い残し、旋風を残してダイニングを全力疾走で出て行き、そのまま玄関からも出て行った。 「ののちゃん、早く食べようよ。また遅刻になっちゃうよ」 「うう……」  しょんぼりするばかりの埜々香のパンを、あろえが細かくちぎってやっていた。あろえは凌央にも、 「凌央ちゃん、学校行く支度《したく》した? 忘れ物ない? 時間割|確認《かくにん》しないとダメだよ」 「…………」  凌央は何も言わずにあろえをじっと見つめ、かくんとうなずいて、またゆっくりと咀嚼《そしゃく》を再開する。  巴《ともえ》が椅子《いす》を鳴らして立ち上がり、横を向いたまま台所を後にした。いつもは自分の食器を炊事場に運ぶのに、今日はほったらかしだ。僕は溜息《ためいき》をついて、琴梨《ことり》と巴の皿を重ねて積み上げた。  やっとのことで朝食を終えたあろえたち三人が玄関に出そろった。あろえは春の太陽みたいな笑みを浮かべながら、埜々香《ののか》と凌央《りょう》の手を引いている。自分の鞄《かばん》は脇《わき》に挟んでの二人連れ。これも毎朝の光景だった。 『行ってらっしゃい。車などに気をつけて』  下駄《げた》箱《ばこ》の上の羊人形が目のレンズをくるくるさせて声を出し、あろえも微笑《ほほえ》み返した。 「うん、ガーくん。行ってくるね」  あろえは僕にも、 「じゃあ、ひーくん。行ってきまーす」  軽やかに言って、あろえと埜々香、凌央の中等部トリオは屋敷《やしき》の門をくぐった。  見送りを終え、僕も大学に行く用意をしようときびすを返した時、 「ん?」  下駄箱の横に見覚えのある物が置いてあった。あろえがいつも携帯している分《ぶ》厚《あつ》い書物で、しばしば彼女の遅刻の原因となる植物|図鑑《ずかん》である。 「変だな。今まで忘れていったことなんかないのに……」  玄関先に置き忘れられた一冊の本。  思えば、それが今日に起こる出来事の前兆だった。        ☆ ☆ ☆  僕が大学の学食で昼飯を食べていると、襟《えり》元《もと》に付けていたバッジが聞き覚えのあるメロディを奏で始めた。バッジの頭をぽんと叩《たた》くと鳴りやんで、電子音声が言った。 『がーくんです。そちらひーくんですか?』 「切るぞ」 『それは困りますな。緊急《きんきゅう》の事態が発生したことをお知らせしようと連絡したのに』 「どうせ、またバケモンが出たんだろ」 『違います』  ガニメーデスの声はどこか哀愁を帯びていた。 『あろえさんが学校で倒れたそうです。すぐさま駆けつけなければなりません』 「あろえが? 埜々香じゃなくて?」  言いながら僕は食べかけのチキンバターラーメンのどんぶり片手に立ち上がった。一緒《いっしょ》にいたゼミ仲間に手を振って席を離《はな》れる。 『あろえさんで間違いないですよ。先ほど学校から連絡がありまして。病状は比較的軽微のようですが……』 「何の病気だよ。そんなの聞いてないぞ」 『肉体的な疾患ではありえませんね。私による身体モニタリングシステムを舐《な》めてもらっては困ります。あろえさんはいかなる病気とも無縁《むえん》です』 「じゃあ倒れるはずないじゃないか」 『まことにその通りなので、私はとても心配です。心配のあまり、現在の私は車を爆走《ばくそう》させてそちらに向かっています。ああ、あろえさん……。もし彼女の身に何かあれば、私は館《やかた》の自爆《じばく》装置を作動させてしまうかもしれません』 「それはやめてくれ。というか、そんなもん家につけておくな」  僕は食器回収コーナーにたどり着くまでにラーメンを食い終え、駆け足で校門へと向かう。  ガニメーデス車が急ブレーキで止まるのと、僕の到着はほぼ同時だった。半端なオープンカーの運転席に乗ろうとした僕の目に、泥まみれになった羊のぬいぐるみが入った。 「……どうやって車に乗り込んだんだ?」 『這《は》いずって、です。苦労しました』  ガニメーデスは角《した》の下からマニピュレータを出してバンザイをする。僕は玄関から車止めまでずるずる蠢《うご》いて移動する化け羊を思い描いて溜息《ためいき》をついた。 『なんですか、その反応は。途中で猫にケンカを売られながら必死の思いだったのに。何よりも、見てください! あろえさんの手《て》縫《ぬ》いの姿がこんなに汚れてしまって!』 「わかったから、早く出せ」  僕がシートベルトを締《し》めると同時に、ガニメーデス操縦《そうじゅう》のオープンカーはニトロのボンベをエンジンに直結したのかという勢いで発進、あらゆる交通法規を無視しながら、僕とガニメーデスはあろえたちの通う女子校へと急いだ。  数分後、確実《かくじつ》にタイヤが磨耗《まもう》したに違いない恐怖のドライブが終わった。やや腰砕けになりながら僕は車を降り、目の前にある端正な校舎を見上げた。いい感じの女子校だ。さすが幼年部から大学まで完備しているだけのことはある。 「放してくれないか」 『いやです』  僕の片手にガニメーデスがぶら下がっていた。マニピュレータがつかんで放そうとしないからだが、おかげで守衛《しゅえい》に変な目で見られた。玄関までこの二人が出迎えに来ていなければ、絶対入れてもらえなかっただろう。 「あ、あ、あろ、あろ、あろろろ」  泣きそうな顔でうろたえている埜々香《ののか》と、 「————」  ひたすら沈黙《ちんもく》を守っている凌央《りょう》が僕を先導《せんどう》してくれている。女子校になんか入ったことないから妙な緊張《きんちょう》感《かん》を強《し》いられた。まだ午後の授業が始まっていないようで、そこら中にいる中等部の生徒達が僕ら一行をそれぞれに興味《きょうみ》深《ふか》げな眼差《まなざ》しで見つめている。ガニメーデスに突き刺さる視線《しせん》が痛い。黙《だま》って歩いているのも気詰まりなので訊《き》いてみることにする。 「あろえが倒れたって?」 「あ……は……そ、そ」と埜々香《ののか》。 「————」と凌央。 「それで、あろえは今どこだ?」 「ほ、ほけ……ほ」 「————」 「保健室か」 「……そ、そそう……で」 「————」  そんな応答をしているうちに、その保健室に到着した。まったく逡巡《しゅんじゅん》の色を見せずに凌央が戸を引いて、ドライアイスみたいな瞳《ひとみ》で僕を見上げた。  あろえは白いベッドで眠っているようだった。いつもはぱっちりした両目を閉じ、口を波線状にして寝息を立てている。  白衣姿の若い女校医さんが回転|椅子《いす》を軋《きし》ませながら僕へと振り向いた。 「掛川《かけがわ》さんのお兄さん……じゃないわよね。あ。あなたがひーくん?」  なんで知ってるんだろう。僕が答えを模索していると、 「掛川さんとか三隅《みすみ》さんとか、ここに来たらよくあなたの話ばっかりしてるわよ」  あろえはともかく、埜々香が饒舌《じょうぜつ》に喋《しゃべ》ってる姿は想像の埒外《らちがい》だ。  校医の人は僕に椅子を勧めてから、 「ありがとう雪崎《ゆきざき》さん、もういいわ。三隅さんも、教室に戻りなさい」 「ひ……あの、あの」  埜々香は掌《てのひら》を合わせ、唇を震《ふる》わせて涙目になっていた。僕がうなずきかけてやると、ぼんやりと立っていた凌央が 「…………」  どこに隠していたのか勧進《かんじん》帳《ちょう》をめくって僕に見せた。『小康状態』と書いてある。凌央はさらに頁《ページ》をめくり、『健康第一』『家内安全』と四文字|熟語《じゅくご》を続けると最後に、 「よろしく」  ぽつりと呟《つぶ》いて綺麗《きれい》な御辞儀《おじぎ》をして、そのままスタスタと、心配そうにあわあわしている埜々香の手を引いて保健室を出て行った。 「仲睦《なかむつ》まじくていいわね」  女医さんが微笑混じりでコメントし、何とも言えないでいる僕へと向き直った。 「掛川《かけがわ》さんの病状だけど」 「はあ」  僕はなんとかガニメーデスの手を振りほどこうとしながら返事をする。全然|離《はな》れない。 「微熱と腹痛、頭痛、眩暈《めまい》、動悸《どうき》などを併発してるのね。鎮静《ちんせい》剤《ざい》を飲ませておいたわ」 「病名は何ですか?」  それが一番気になる。女医さんは僕とガニメーデスを面白《おもしろ》そうに見ながら、 「はっきり言ってしまえば、ストレスね」 「ストレス……?」 「ええ。心因的な。掛川さんの持病みたいなものよ」 「初耳ですが……」  僕はガニメーデスを睨《にら》みながら呟《つぶや》いた。羊のカメラレンズがきゅるると一回転する。 「あら、そうなの? 去年も何ヶ月かおきによく担ぎこまれてたけど……。あ、そう言えば二年生になってからはこれが初めてね。てっきり治っちゃったのかと」  校医女史はあろえの寝顔を見て微笑《ほほえ》み、僕を見てさらに微笑んで、 「掛川さん、今は逆《さか》瀬川《せがわ》先生のところにいるんでしょう。あなたはお孫さんね」 「ええ、まあ」 「どう、みんな仲良くしてる。さっきの二人と、あと高等部の二人とも」  仲良く……ねえ。今朝《けさ》の一《ひと》悶着《もんちゃく》が思い起こされる。少なくともあろえは全員と仲良くやっていると思うんだけど。  僕がそう言うと、校医の女性は、 「掛川さんはいつも笑っているでしょう? 学校でもそうなのよね。彼女はそうやって、周囲に明るさを振りまいているの」 「それでよく助かってますよ」 「でもね。明るく輝《かがや》き続けるっていうのも、けっこう負担がかかるものなわけね」  僕は反射的のあろえの顔へ視線《しせん》を飛ばした。 「つまり、あろえは無理して笑っている時もあるってことですか?」  しかし女医さんは首を振り、 「本心から笑っているのは間違いないでしょうね。掛川さんの笑顔《えがお》は、いつだって嘘《うそ》も偽《いつわ》りもない。でも彼女だって心を痛めることがある。無《む》意識《いしき》にね」  ピンときた。 「ええと……。ひょっとして、あろえは学校でも仲裁役とかケンカを仲直りさせる役とか、その手のものを引き受けているんですか?」 「話が早いね。そう、掛川さんに明るい笑顔で訴えかけられたら、ちょっとした気まずさや口ゲンカなんてやってるほうがバカらしくなるでしょ? そういうこと」 「なるほど」 「それに……」  校医さんは少し言葉をひそめて、 「掛川《かけがわ》さんの実家のことは知ってる?」  そういえば、僕は彼女たちのことを何も知らない。 「掛川さんのご両親は二人とも働き者なのね。お父さんはもう何年も海外出張に出かけておられてて、お母さんのほうも夜遅くにしか帰ってこないみたい。だからわたしは掛川さんが逆《さか》瀬川《せがわ》先生の所に寄宿するって聞いて、そっちのほうがいいかな、なんて思った」  そんなのも初耳だった。それにしても爺《じい》さんを先生と呼ばれるのも耳がこそばゆい。  女校医さんは上品な笑い声を上げて立ち上がった。 「ちょっといい? わたしはこれから会議《かいぎ》に出なくちゃならないの。掛川さんはお任せします。もうすぐ目を覚ますと思うから。今日は帰宅してもいいって伝えておいて」  ええと、どうしようかな……。  そう思っているうちに彼女は机の書類《しょるい》を手に取って、保健室を出て行ってしまった。  とりあえず僕はベッドの側《そば》にある椅子《いす》に座って腕組みをしてみた。  あろえの眠っていても笑っているような顔を眺めていると、 [#挿絵画像 (01_157.jpg)] 『可愛《かわい》らしい寝顔ですなあ』  ずっとぬいぐるみの振りをしていたらいいのにガニメーデスが喋《しゃべ》り出した。いつまでこいつは僕の腕にくっついている気だ。 『保健室のベッドに寝ているあろえさん。おお、実に良いですね。格別な状況です。学校という場所だからこその特殊性がこの空間から私のすべての感覚器にビンビンと伝わってきます。そう思いませんか?』 「病人前にして何を言ってんだ」 『あなたこそ、こうして眠り続けるあろえさんを目の前にして何をしているのですか? 周りには誰《だれ》もいません。この保健室に二人きり、しかもあろえさんは眠り姫。すべきことはただ一つ。私の期待を裏切らないで欲しいものです』 「そんなのはどうでもいい。お前は知ってたのか?」 『いいえ。申し訳ないことに』  ガニメーデスは声を落とした。 『ですが、考えてみれば明白でしたね。我が屋敷《やしき》でも目に見えない精神的|衝突《しょうとつ》は存在していました。巴《ともえ》さんは神経質ですし、埜々香《ののか》さんはあの通り。琴梨《ことり》さんは天衣《てんい》無縫《むほう》で、凌央さんは周囲の空気を読みません。あろえさんがいるから、五人仲良くやってこられたと言っても過言ではないでしょう』 「全然気づかなかったけど、言われてみればそんな気もするな」 『そのツケが今回我々に回ってきたのです。なんとかしないと』  でも何を? 『看病に決まってます。さあ、やりましょう。あなたと私とで、あろえさんを思う存分看病するのです!』 「少し黙《だま》ってろ」  僕はスヤスヤという擬音《ぎおん》がぴったりなあろえの寝顔を見つめた。まるで日溜《ひだ》りで丸くなる猫のような寝顔だ。唇が緩《ゆる》んでいるのでなおのことそう思う。ストレスで倒れたとは思えないほど、安らかな表情だ。 「……」  あろえがいつも付けている髪留めが枕《まくら》元《もと》に置いてあった。橙《だいだい》色《いろ》のボールみたいなやつ。ふと手にとってみた。よくよく見ると、それはオレンジに手足をつけたような何かのキャラであるらしかった。スポンジみたいな手触りがする。 「気苦労をかけてたんだな」  僕の呟《つぶや》きに返事があった。 「そんなことないよ」  見下ろすと、あろえの笑った瞳《ひとみ》と目があった。掛け布団から手を伸ばしたあろえは、 「それ、ばれんしあ星から来た宇宙人のみかんくんだよ。手作り。ちょっと貸して」  僕からみかんくんとやらを受け取り、あろえはいきなり口調《くちょう》を変えて話し出した。 「や、あろえくん。どうして寝てるんだい」  腹話術のつもりらしい。  あろえ「うん、みかんくん。ちょっぴりポンポンが痛くなっちゃったよ」  みかん「それはいけないなあ。だいじょうぶかい、あろえくん」  あろえ「平気だよー。寝たら直ったよ」  みかん「それはよかったね。安心だね」  あろえ「うん」  みかん「ばんざーい」  あろえ「えーっと」  それ以上続かなくなったらしく、あろえはセリフを考えるように首を傾ける。代わりに僕が言った。 「本当にだいじょうぶか?」 「うん、すっかり」  あろえはそう言うが、完全に治ったわけではなさそうだ。薬のせいかもしれない。あろえはどことなくホワホワした目つきをしている。額《ひたい》に手を当ててやると確《たし》かに熱《ねつ》っぽい。 「ところで、いつから起きてたんだ?」 「さっき。えーと、ガーくんがお漬《つ》け物《もの》が回るって言ってたとこくらい」  無《む》邪気《じゃき》にあろえは微笑《ほほえ》んで、身を起こした。みかんくんを髪に付け直してベッドから降りようとする。途端《とたん》によろけ、僕は身体《からだ》を支えてやる。 『帰って休んだほうが絶対いいですな』  ガニメーデスの進言に、僕もうなずく。 「そうしよう。歩ける?」 「うん。鞄《かばん》取って来なきゃ」  ふらつく足取りが危なっかしい。僕はあろえを呼び止めて、ガニメーデスの『車まで背負ってあげたらいかがでしょうか。鞄なら凌央《りょう》さんに頼んだらすむことです。うん、それがよい』という言葉に従うことにした。 「えー。いいの? あたし重い重いよ」 「気にするな」  そして実際、気にするほどあろえは重くなかった。        ☆ ☆ ☆  なるべくゆっくり運転するようにガニメーデスに指示したおかげで、オンボロセダンはかつ てないくらいの安全運転で館《やかた》に到着した。僕はまたあろえをおぶって二階の彼女の部屋まで連れて行く。階段を上がっていると、 「ごめんね、ひーくん」  耳元であろえが囁《ささや》いた。 「謝ることなんか一ミリもないさ」 「でも、ひーくん学校が」 「午後の講義《こうぎ》ならどうせ自主休講にするつもりだったから気にしなくていい。EOSが出て呼び出されるよりだいぶ気が楽だ」  僕は『あろえんとこ』というネームプレートが掛かっている扉の前で下ろしてやった。 「寝間《ねま》着《き》に着替えて横になっているように。そういや昼ご飯は?」 「まだだよ」 「じゃあお粥《かゆ》を作ってくる。味噌《みそ》味《あじ》でいい?」 「うん、なんでもいいよ」  嬉《うれ》しそうにうなずいて、あろえは自室に入っていった。扉が閉まる前、小さな声がした。 「ありがと」        ☆ ☆ ☆  あろえにお粥を食べさせた後、僕とガニメーデスはキッチンにいた。 『問題が消滅したわけではありません』 「それくらい僕にも解《わか》ってる」  ビニール袋に氷を放りこみながら僕は考えていた。  あろえは無《む》意識《いしき》に溜《た》めこんだストレスによって周期的に倒れるらしい。本人にその意識があるならまだしも、ないのだからストレスの発散の仕方も解らない。あろえが問題なのではなく、周囲が問題だからだ。そしてこの場合の最も近い周囲とは、この屋敷《やしき》の中なのだ。今朝《けさ》の揉《も》め事が思い出される。 「ああいうのを無くさないといけないのか」  全員の意識改革が必要だ。巴《ともえ》はもっと素直になるべきで、琴梨《ことり》はもっと人の話を聞かなければならず、凌央《りょう》はもっと何を考えているのか明らかにして欲しいし、埜々香《ののか》はちょっとのことではメソメソしないような強い精神を持たないといけない……。 「なんか無理っぽいな」 『始める前から無理だと言っていてどうします。まずやってみないと』 「まあね。でも、しとやかな巴とか、思慮《しりょ》深《ぶか》い琴梨なんか想像もできないぞ」 『実は私もできません。それにお嬢《じょう》さんがたはそれぞれあの個性があってこそ魅力《みりょく》も光ると言うものですから、せっかくの個性を消してしまうのも心残りです』 「第一、どうすればいいのか解《わか》らないし」  僕は嘆息し、氷入りビニールの口を輪《わ》ゴムで縛《しば》った。 「頭にカチワリのっけて寝てみたい」というのがあろえのリクエストだった。たぶん氷《ひょう》嚢《※のう》[#「※」は、第3水準1-15-32]のことだろう。 「まあいいや。今はあろえの看病のことだけを考えよう。おい、体温計はどこだ?」 『そんなものを使用しなくても、私のサーモセンサーで体温くらいは計れますが』 「気分の問題なんだよ。体温計があったほうが、看病されてる気分になるだろ」  洗面器に水を入れたり、タオルを用意したり、僕はひとしきりの看病グッズを取りそろえた。いざ、それらを抱えてあろえの部屋へ行こうとした、その時だ。  屋敷《やしき》中《じゅう》に警報《けいほう》が響《ひび》き渡った。        ☆ ☆ ☆  しばらく僕は茫然《ぼうぜん》と立ちつくした。何の音かは思い出すまでもなく、とっくに知ってる。 『ああ……』  ガニメーデスもいつになく悲しげに、 『またしてもこんなタイミングとは。これから看病シーンをじっくりゆっくり記録《きろく》しようと思ってたのに』 「それより警報を切れ。早く!」  耳《みみ》障《ざわ》りな電子音がふっつりと止《や》む。僕は看病道具を床に置いて、その代わりにガニメーデスを抱え、急いで地下に向かった。司令室なる地下室へ飛び込むと、壁面《へきめん》の巨大モニタに近隣《きんりん》の地図が映し出されていた。その一箇所が赤く点滅している。 『間違いようもなくEOSです。出現後ですね。比較的大型で……それに、これは……』  背後で気配《けはい》がした。振り返るまでもない。 「行かなきゃね」  パジャマ姿のあろえが戸口に立っていた。ほわんとした顔のまま、壁《かべ》にもたれるようにしている。僕は首を振った。 「こんな時くらいは休んでいい。他《ほか》の四人でも何とかできるさ。三人でも何とかなったときがあっただろ?」 『それがそうもいかないようです』  ガニメーデスが言った。 『出現場所をよくご覧《らん》ください。どこだか解ります?』 「訊《き》く前に説明しろよ」 『では手短に。たまたま上空を飛んでいた観測《かんそく》衛星《えいせい》からだまし取った写真です』  画面が切り替わり、奇妙な情景を映した。ぱっと見た感じでは大きさがよく解《わか》らなかった。ただ薄《うす》ピンクの丸だ。しかしスケール感がつかめるようになると、それがやたらに巨大であることが理解できた。ピンクの円の側《そば》にある家屋が、小さなゴミみたいに見える。  それ以上に、ピンク色で覆《おお》い隠されている部分が問題だった。 「マジか?」 『御覧《ごらん》の通り、今回のEOSが出現したのは我々が先ほどまで居た所、あろえさんたちの学校の敷地《しきち》内《ない》です。いやむしろ敷地全域と言ったほうがいいかもしれません。高等部も中等部も大学部も全部、すっぽりとEOSに覆われています。普通の手段では、出ることも入ることもできません』  あろえが僕の横まで来た。おぼつかない足取りだ。微熱《びねつ》のある指が僕の腕をつかむ。 『おそらくEOSはドーム状の形式で女子校に被《かぶ》さっていると思われます。この壁面《へきめん》を打ち破れるのはお嬢《じょう》さんがたのアイテムDマニューバが必要です』  ガニメーデスの説明を全部聞くこともなく、僕は理解していた。あろえ以外でEOSを攻撃《こうげき》できる人間は四人とも薄ピンク色ドームの内側にいる。そして彼女たちの道具やDマニューバがあるのは——  ここだ。  ここにいるのは、あろえだけだった。 「着替えてくるね」  明るく言いながら、でも頼りない歩調《ほちょう》で、あろえは司令室横のロッカールームへと続く扉へ歩き出していた。        ☆ ☆ ☆  ガニメーデスの運転する車が疾走している。助手席に乗るあろえは、例のコスチュームを着込みスケッチブックを抱きしめて、静かに目を閉じていた。僕はフロントガラスの向こうを睨《にら》んでいる。例の蛍光ピンクをしたドームの頂上がすでに見えていた。 『不幸中の幸いでした』  ガニメーデスがナレーションを入れている。 『もし五人全員がEOSの内側に閉じ込められていたとしたら、我々にはまったくどうすることもできません。奴《やつ》らを倒せるのはお嬢《じょう》さんがただけで、しかもアイテムなしには戦えません』  僕はダッシュボード上のガニメーデスに言った。 「今回の奴は、それを狙《ねら》ってきたのか?」 『EOSに目的|意識《いしき》があるのかどうかは不明ですが、偶然にしては出来すぎていますね。機械《きかい》の身である私ですら、ゾッとします。あろえさんが倒れてくれたおかげで、我々は世界の首の皮一枚だけ破滅から免れたのです』  気がかりなのはそれだけではない、EOSが意識《いしき》的《てき》にあろえたち五人の通う学校をターゲットにしたのだとすると、それは学校と言うよりも五人そのものを狙《ねら》ったと言うほうが正解だ。  今までのEOSは自然災害みたいなものだった。ランダムな出現パターンで、場所も時も選んでいない。それが変化し始めているのかもしれない。EOSはあろえたちを “敵 ”だと明確《めいかく》に感づき始めているのか……?  僕は頭を振った。この手の悩みは案外取り越し苦労だったりするのだ。今だけは、これもそうだと信じておこう。 『到着です』  ガニメーデスが言い、車が停《と》まった。        ☆ ☆ ☆  近くからでは全体像がまるで見て取れない。とにかくデカい。小型の山くらいはありそうだ。さっきまで校門があった場所も、ピンク色の湾曲した壁《かべ》の向こうにあるようだ。 「内部にいる人間は無事なんだろうな」 『そう祈るしかありませんが、このドーム状EOSは大きさの割には質量がわずかです。おそらくこの壁《かべ》も薄《うす》っぺらだと思われます。通常兵器では破れませんが』  周囲には警官《けいかん》の姿が群れをなして、野次《やじ》馬《うま》たちを押し戻していた。黄色と黒のロープが手早く張り巡らされている。どうやってだかガニメーデスが指示したそうだ。 『準備はよろしいですか?』  ガニメーデスの問いかけに僕はうなずいた。僕の両手はかさばる荷物を抱えている。四人分の戦闘《せんとう》衣装と、竹刀《しない》やらスケボーやらのアイテムだ。あろえがEOSの壁に穴を空けると同時に、僕が飛び込んで四人に渡す予定である。四人が解《わか》りやすい場所で一《ひと》塊《かたまり》になってくれていればいいんだけど。  あろえは地面にしゃがみ込んで、スケッチブックに絵を描《か》いていた。 「うーん、うーん」  唸《うな》っているのは焦りのせいで上手《うま》く描けないからか、まだフラフラしているからなのか。  祈るような数分が過ぎ、あろえのスケッチブックが発光した。固形の青白い光がゆるやかに姿を変え、輝《かがや》きが薄れた時、あろえが両手に持っているのはチェーンソーのごとき物体である。壁に穴を空ける道具とは何かと考えて、それくらいしか思いつかなかった僕が描くように指示したわけだが、当然、それはあらかじめ知っていなければチェーンソーとは思えないような形状をしている。これは、あろえの想像の中にしかないチェーンソーだ。 「こうかな? よいせ」  あろえがヒモみたいなものを引っ張ると、刃に当たるらしき部分が回転を始めた。よろよろとEOSに近付いていく足取りが危うい。  とっさに僕は荷物を置いて、あろえの背後に回った。後ろから、チェーンソーを持つあろえの手を持ってやる。 「んー。ん?」  あろえは首を横に向けて僕を見て、声を上げずに笑った。僕はまだ余裕がない。 「あろえ、お前はこれを持ってるだけでいい。僕が動かすよ」 「うん」  回転するチェーンソーの刃が蛍光ピンクに触れた。硬い手《て》応《ごた》えが腕に伝わり、青い花火が噴水《ふんすい》のように溢《あふ》れて弾《はじ》ける。僕はあろえの手に自分の手を重ね、ゆっくりとチェーンソーを動かしていく。あろえの能力持続時間は三分程度。その間に僕が通れるくらいの入り口を穿《うが》たなくてはいけない。 『一分経過です』  ガニメーデスが冷静な経過報告。  壁にはようやく五十センチくらいの縦線《たてせん》が入ったところだ。僕は渾身《こんしん》の力で、円を描くようにチェーンソーを傾ける。あろえの手にも相当の力がかかっているはずだが、今は気遣うヒマがない。 『二分経過』  僕の頬《ほお》を汗が伝った。もう少しだ。 『お急ぎを。EOSが再生を開始しようとしています。それから……攻撃《こうげき》態勢に移行中』  EOSの色が徐々に濃《こ》くなっているのが解《わか》る。パールピンクからマゼンタへと。 『二分三十秒経過。次元エネルギー反応増大』  僕の噛《※か》[#「※」は「口+齒」、第3水準1-15-26]みしめた奥歯が軋《きし》む。目の前にあるあろえの髪が顔にかかってくすぐったい。 『二分四十五秒……五十秒……』  カウントダウンが続く。三分ってこんなに短かったのか。 「くそ!」  チェーンソーはいびつな円を描き終えようとしている。あとちょっとだ。ちょっとだけ待ってくれ。 『五十五秒……六、七』  音もなく、ピンクの壁に穴が開いた。 「ひーくん、できたよーっ!」  あろえの叫びを聞く前に、僕は可能な限りのスピードで衣装を抱えて頭から飛びこむように穴へと突っこんだ。  もちろん受け身は取れない。僕は頭から地面に着地して転がった。擦《す》り傷だらけになったことだろうが気にもならない。  寝転がった体勢で僕は背後を振り向いた。空けたばかりの穴は、すでに塞《ふさ》がれようとしていた。空を見上げると薄《うす》気味《きみ》の悪いピンクの光がどんよりと空を曇《くも》らせている。その天井《てんじょう》で、赤い <核> が回転しているのも見えた。  僕はEOSの中にいる。  しばらく呆《ほう》けてから、立ち上がろうと慌てる。四人を捜さねば。 「巴《ともえ》たちはどこだ」 「ここですわ」  頭上から声が降ってきて、長い髪を持つ少女が僕を見下ろしていた。 「すでに四人とも揃《そろ》っております。あんな火花が散っていたらそこから来ると解《わか》るに決まってます。さあ、その荷物をわたしたちにお渡しください」  巴だった。その横に琴梨《ことり》もいて、僕にVサインを出しながら笑った。 「かっこよかったよ、ひーくん! どーすんのかと思ってたけどさっ。そういやあろえが倒れたんだって? 元気なかっ」 「その話は後で」  ようやく僕は立ち上がり、不安そうにうつむきつつ僕を見つめる埜々香《ののか》と、じいっとした無表情をEOSの壁《かべ》に向けている凌央《りょう》がいるのも確認《かくにん》した。  ついでに、他《ほか》の生徒たちが教室の窓から鈴なりに首を突き出している光景も目に入る。  奇跡的にすべての道具とコスチュームを持ってこれたようだ。巴と琴梨は奪い取るように、埜々香はおずおず、凌央は無感動に自分たちの衣装を受け取り、そしていきなり着ていた制服を脱ぎ捨て始めた。 「ちょっとあなた! 見ないでください。後ろを向いておくのです!」  巴の怒気に従って、僕は背を向ける。ガニメーデスなら泣いて残念がるだろう。 「わたしだってこんな所で生《なま》着替えをしたくはありませんわ。ですが事情が切迫してます。ああ、なんてことでしょう。大勢の目がある中で半裸にならないといけないとは。恥辱《ちじょく》です」 「いいじゃん巴。こんな学校の真ん前で着替えるなんて、滅多《めった》にないよ!」 「滅多やたらにあったら困りますわ。埜々香、急ぎなさい。凌央も! 脱いだ服を畳むのは後回しでかまいません」  そんなやりとりもつかの間、琴梨の「もういいよっ!」という合図で振り返る。  四人がいつもの戦闘《せんとう》スタイルで、Dマニューバの燐光《りんこう》をまとっている。  天を仰ぐと、 <核> の回転が速度を上げていた。その円盤《えんばん》の付近から、小さな破片のようなものが剥《※は》[#「※」は「剥」の厳密異体字、第3水準1-15-49]がれ落ちてきた。いっぺんが五センチくらいの三角立方体だ。ピンク色の三角形は、地面に落ちるなりジュッと音を立てて学校の石畳を焦がして溶けた。  天井から一気に何個もの三角が分離《ぶんり》した。 「避《よ》けろ!」  僕は叫びながら埜々香《ののか》の身体《からだ》を抱え、凌央《りょう》の手を引いて走った。EOSの攻撃《こうげき》が次々と降り注ぐ。  琴梨《ことり》はスケボーに乗って軽やかに、巴《ともえ》はひょいひょい飛び跳《は》ねてかわしながら、竹刀《しない》をふるって三角形を打ち据えているが、このままでは被害は拡大するばかりだ。  僕は素早く反撃の方法を練った。 「おーい、琴梨」 「いえっさーっ。呼んだかいっ」  猛スピードでスケボーを転がしてきた琴梨が僕の脇《わき》で急停車。 「あの <核> のところまで跳べるか?」 「おやすいご用さ! 勢いつけたら楽勝だっ」 「巴も乗せて欲しいんだけど」 「むむっ。それは難儀《なんぎ》だなっ。巴は重いからなあっ」  巴が離《はな》れた所から叫び返した。 「失礼な! わたしは理想的な体重を維持していますわ。琴梨よりは軽いはずです!」 「そうだっけ。あれっ、この前の身体測定ではさ。巴あたしよりさ、」 「お黙《だま》りなさいませ!」  状況によっては微笑《ほほえ》ましいヤリトリだが、ゆっくり聞くのは別の時間にしておこう。 「いいか、琴梨。お前は巴をどうやってもいいから <核> 近くまで連れていくんだ。そこを巴の竹刀で叩《たた》きのめす」 「このEOSの攻撃をどうやってかいくぐるのです?」と巴。 「それは……埜々香になんとかしてもらおう」  びくっと震《ふる》えた埜々香が口を半開きにして僕を上目遣い。 「凌央にも手伝ってもらいたい」  凌央はゆっくりとした仕草《しぐさ》で瞬《まばた》きして、僕を見て、埜々香を見つめた。不思議《ふしぎ》なことに、凌央は僕の言いたいことが解《わか》ったらしい。  僕はなるべく厳《おごそ》かな声で言った。 「これから、作戦を伝える」  そして——。        ☆ ☆ ☆  決着はあっさりついた。  巴の早口言葉みたいな必殺攻撃で一撃された <核> は砕け散り、蛍光ピンクの巨大なドームも溶けるように空に散って消えた。  僕が考案した作戦はこうだった。  まず埜々香《ののか》が三匹の精霊《せいれい》犬《けん》を出現させてEOSの <核> を攻撃《こうげき》させる。しかしあの三匹は埜々香の演奏のせいかは解《わか》らないがあまり言うことを聞かないため、凌央《りょう》の力でちょっとしたおまじないをかけてやった。凌央の筆が書きだした『猪突《ちょっとつ》猛進《もうしん》』という光の文字をくらった三匹は、それまでの怠惰《たいだ》な生活を反省したのか <核> に向かって一《いっ》直線《ちょくせん》に飛び上がった。それこそは陽動であり、EOSが精霊犬に反撃《はんげき》する間に巴《ともえ》を首にしがみつかせた琴梨《ことり》がスケボーで走り出す。ソニックブームを巻き起こす琴梨のスピードでもってEOSの内壁《ないへき》を一気に駆け上がり、最後、ジェットコースターのループのように遠心力で天頂付近まで行ったところを、巴がタイミングを合わせて竹刀《しない》の一撃をくらわせる——。それですべては終わった。琴梨と巴はそのまま天空を半周して戻って来たが、笑顔《えがお》の弾《はじ》けている琴梨と違い、巴は青い顔をして竹刀を地面についていた。  何にせよ、全員にケガがなくてよかった。僕の腕や顔に付いた擦《す》り傷くらいどうってことない。  そして現在、僕らは車にすしづめとなって、屋敷《やしき》へと帰っている最中である。  交通法規なんかどうでもよくなっている気分なので、埜々香もちゃんと後部座席に乗って、巴と琴梨に挟まれて縮《ちぢ》こまっていた。  いつもは巴の指定席、助手席には今日はあろえが座っていた。  EOSを撃退した後、ガニメーデスとともに車の側《そば》にいたあろえは、僕たちの姿をみるなりにっこり微笑《ほほえ》んで手を振り、くたりと崩れ落ちた。やっぱり無理をしていたんだろう。 「あろえ、どうしました!」  真っ先に駆け寄った巴に、あろえは、 「よかったよう。みんな……」  と言いかけて眠り込んだ。今も眠っている。あろえを起こさないように、後部座席の四人も唇に指をあてて静かにしている。特に琴梨のむずむずする口元は凌央が押さえていた。  僕はあろえが熟睡《じゅくすい》しているのをガニメーデスに確認《かくにん》してから、後ろを向いた。 「聞いてくれ。話がある」  全員の視線が僕に集まり、僕は考え込んだ。僕は女校医さんから聞いた倒れた原因や彼女のストレス性疾患について、あろえがいかに気を配っているか、どれだけ周囲のことを考えているか、などをどう言おうかと模索した。模索しているうちに僕自身がだんだん反省する気分になってきた。あろえに負ぶさっていたのは僕もだ。彼女の笑顔にすっかりオンブに抱っこで、それでこの娘たちの仲も滞《とどこお》りなく現在形で進んでいるのだと思っていたからだ。  ようやく考えをまとめ上げた僕が口を開こうとすると、すかさず巴が言った。 「あなたは何もおっしゃらなくてもけっこうです」  巴は助手席にもたせかけられているあろえの髪飾りを見つめていた。 「わたしたちはあなたよりあろえとの付き合いが長いのです。これから何をすべきか、ちゃんと解《わか》っておりますわ」 「えっ? いったい何をす——むむむ、」  言いかけた琴梨《ことり》の口を凌央《りょう》と埜々香《ののか》が塞《ふさ》いだ。埜々香は勇気を振り絞るような決意を不安定な顔に浮かべ、凌央はただ粛々《しゅくしゅく》と僕を見つめていた。        ☆ ☆ ☆  屋敷《やしき》に帰還《きかん》を果たし、僕があろえを部屋に寝かせて、凌央に着替えさせるように依頼してから階下に降りると、 「とにかくあろえを看病するのです。全員、今日は徹夜《てつや》を覚悟しなさい。とにかく徹底的にやらないといけません!」  コスチュームをまだ解いていない巴《ともえ》が陣頭指揮を執っていて、埜々香がわたわたしながら命令を受けていた。 「埜々香は水《みず》枕《まくら》を作るのです。タオルを巻くのを忘れてはなりません。それから琴梨、あなたはお湯を用意しなさい。身体《からだ》を拭《ふ》くのに使います。熱《あつ》すぎず冷めすぎずです」 「難《むずか》しいなあっ」  それでもハキハキと、琴梨は洗面器片手に風呂《ふろ》場《ば》へと向かうようだった。  当然、巴は僕も呼びつけた。 「あなたは夕ご飯の支度《したく》をお願いします。そうですわ、消化吸収のよい、鍋《なべ》焼《や》きうどんなどいかがでしょう」 「いいよ」  と僕は答えた。 「でも、うどんを買ってこなくちゃいけないな。卵とじにするんだったら、ニワトリの卵もさ」  巴は唇を引き結んで僕を見た。何か言い返してくるかなと思っていたら、巴は表情を隠すかのように大きな動作でうなずいた。 「解りました。わたしがおつかいに出向きます。必要なものを、どうぞ言うがよいですわ」  僕が財布とメモを渡すと、巴はそのままの格好で出かけて行った。ひょっとしたら巴は巴なりに動転していたのかもしれない。 「ひー、あうわ。つつつつ……」  洗面台では水枕に水を入れるだけなのに、なぜか頭からずぶ濡《ぬ》れになっている埜々香がうろたえていた。  僕は埜々香を手伝って水枕を作り、大事そうに水枕を捧《ささ》げ持つ埜々香と一緒《いっしょ》にあろえの部屋へ様子《ようす》を見に行く。 「うわ」  部屋の床一面に、習字の半紙が散らばっている。どこから持ってきたのか、凌央《りょう》が絨毯《じゅうたん》に半紙を広げ、そこに黙々《もくもく》と墨《ぼっ》痕《こん》鮮《あざ》やかな字を書き連ねているのだ。すさまじく達筆だったが、どうやら『病魔《びょうま》退散《たいさん》』と書いてあるらしく、オフダかそれに類する何かの代わりのつもりのようだ。  凌央は僕と埜々香《ののか》をチラリと見上げ、 「…………」  ただ黙々《もくもく》と筆を動かし続けた。  そこに琴梨《ことり》が洗面器片手に現れた。 「ややっ! 何だこれはっ? お習字大会かなっ。さぁ、あろえ! 体|拭《ふ》こうか!」 「それは後にしよう。よく寝ているみたいだし」  琴梨はとびきりの笑顔《えがお》で、 「うむっ! 残念! あろえを隅々まで拭きたかったのにっ!」  僕はベッドへと目を向けた。あろえは、やはり笑っているような顔で目を閉じていた。楽しい夢を見ているに違いない、みんながそう思いそうな笑みを浮かべて。  四人とも、あろえのためにどうしてやればいいのか、僕よりもちゃんと解《わか》っているようだった。僕が彼女たちに指示することなんか何もなかった。僕が何を言うまでもなく、それぞれのやり方であろえを気遣っている。そしてあろえも、仲間たちの思いをくみ取ったように安心しきって眠っている。僕がどうにかしようなんて、とんだ思い上がりだった。彼女たちは知っている。いくら普段《ふだん》が全員マイペースだとしても、一人一人お互いをかけがえのない仲間だと教えられるまでもなく知っているんだ。でなければ、あろえがこんな人を和ませる寝顔でいるはずはない。 「僕もまだまだだな」  ガニメーデスが写真に押さえておきたがるくらいの可愛《かわい》い寝顔だ、と思いついて、僕は車に羊を置き忘れてきたことを思い出した。  かまいやしない。しばらく放っておこう。せめて、あろえが目を覚まし、琴梨があろえを拭《ふ》き終わるまでは。 [#挿絵画像 (01_182.jpg)]  第五話 『ドッグスター』  退屈な講義《こうぎ》が終わると即座に大学を出て、帰宅途中にあるスーパーで夕食のための食材を買い求めてから屋敷《やしき》に帰る、という日課《にっか》が僕の生活サイクルに組みこまれてもう久しい。  今日もまた僕は献立《こんだて》を考えながら世帯主の消えっぱなしの爺さん家《ち》へと戻った。夕暮れ時であり、そろそろ五人娘たちが女子校から戻ってくる時間帯でもある。 「ただいま」  玄関を開けてそう言った僕に対する返答は誰《だれ》からもなかった。まだ帰ってきてないのかなと思いながら、まず食材をキッチンに置いて自室に行こうとした僕の耳に、頼りない音調《おんちょう》の笛の音《ね》が聞こえてきた。  演目はどうやら “茶色の小瓶 ”らしいが、明るい曲のはずなのに妙にメロウな哀愁を漂わせている。  リコーダーの調《しら》べに引かれるようにして僕は縁側《えんがわ》へと向かう。そこにいたのは当然ながら埜々香《ののか》の小柄な姿である。小さな背中を丸めるようにして庭先に座り込んだ埜々香は、戦闘《せんとう》用《よう》コスチュームに身を包み、一心不乱にリコーダーを吹いていた。その後ろ姿に僕はさらなる哀愁を感じさせられる。縁側に置いてあるメトロノームが規則正しくカッチコッチと鳴っており、埜々香はそのリズムに合わせて演奏曲を熱心《ねっしん》に練習しているようだった。  埜々香のDマニューバ <へてか> の能力は、三匹の精霊《せいれい》犬《けん》 <すきゅら> <らいらぷす> <けるべろす> を操作《そうさ》することだ。今、庭先では赤と青と黄色に色分けされた半透明の犬の幽霊みたいなものが三体、まるで息の合っていないワルツを演じている。ちなみに、こいつらが犬の姿で具現化しているのは埜々香が大の犬好きだから、という話を以前僕はガニメーデスから聞かされていた。 「ふう……」  埜々香が演奏を中断して大きく息継ぎをすると、赤青黄色の半透明犬たちもユラユラと消えていく。埜々香はメトロノームのテンポをゆっくりモードにして、再びリコーダーをくわえた。もの悲しくアレンジされた “茶色の小瓶 ”が開始される。  邪魔《じゃま》をしては悪いな。  僕は足音を立てないようにゆっくりと方向転換しようとして、床に奇妙な物体が鎮座《ちんざ》しているのに気付いた。 『やあどうも。おかえりなさい』  声をかけてきたガニメーデスは、片手に木の枝を持ち、もう一方の手にリンゴを持って高く掲《かか》げるというシュールなポーズを取っている。 「……何をやっているんだ?」 『モデルですよモデル。見て解《わか》りませんか?』  ガニメーデスが枝先で示した先を見る。  あろえが壁際《かべぎわ》にしゃがみこんでいた。スケッチブックを抱えるようにして、すうすう寝息を立てている。  どうやら埜々香と同じようにあろえも絵の練習をしていたようだ。そのモデルをガニメーデスが買って出たということらしい。僕は忍び足であろえに近寄り、さっとスケッチブックを抜き取って、開いていたページを見た。 「……うーむ」  この丸まったダンゴムシが角《つの》を生《は》やしているような絵がガニメーデスだとでも? 『見せてください。あろえさんのことです、この私をとてつもなくラブリーな感じに描写してくれているに違いありません』  見せないほうがいいようだ。 「あろえはいつから寝てんだ?」 『かれこれ三十分になりますか。あまりに幸せそうに眠っておられるものですから起こすのも忍びなくてですね。私のあろえさん寝顔画像集にまた一枚の貴重な映像が加わりました。いや感動です。まさか、居眠りしながら「むにゃむにゃ」と言う美少女が実際にいようとは!』 「ところで、他《ほか》の連中は?」 『凌央《りょう》さんは自室で書道の練習中、巴《ともえ》さんと琴梨《ことり》さんはまだ帰っておられません』  夕寝を楽しむあろえを眺めながら、何か肩にかけてやったほうがいいなと考えていると、リコーダーの音がやんでいることに気付いた。 「ふぁっ……。あ、うう……」  埜々香《ののか》が顔を真《ま》っ赤《か》にして僕を見つめていた——が、一瞬《いっしゅん》の後には目が合う前に逸《そ》らされる。メトロノームだけがリズムを刻む夕焼けに染まった縁側《えんがわ》と埜々香。  おそらく僕に練習風景を見られたことが恥ずかしかったのだろう、埜々香はバタバタした手つきでリコーダーとメトロノームを抱きしめると、転《こ》けつまろびつ、部屋から駆け去った。 『おやおや。しかしご安心あれ、埜々香さんの演目はすべて私が録音《ろくおん》しておりました。さっそく再生しましょうか?』  埜々香が嫌《いや》がるだろうと思ったし、さっきチラッと聞いた感じで解《わか》る。以前と変わりなく、へたっぴだった。  EOSとの戦闘《せんとう》でいつも四苦八苦している埜々香だ。みんなの足を引っ張るまいと、彼女なりに努力しているのだろう。あのアガリ症さえなければ、僕だって練習につき合ってもいいんだけど。  僕はスケッチブックを眠るあろえの横に置くと、食材を持ってキッチンに向かった。        ☆ ☆ ☆  ここしばらく出ていないが、他次元侵略体への危機《きき》感《かん》は日に日に割り増しになっていた。なんとなく強敵になりつつあるような気がする。それは五人の少女たちも薄々《うすうす》感づいているようで、EOSに唯一対抗できる彼女たちの能力をそれぞれ磨こうとしていた。あろえは絵画、埜々香はリコーダーの腕前を上げようと練習に励み、巴は辞書をめくりながらブツブツ呟《つぶや》いては強そうな必殺技を開発、凌央は黙々《もくもく》と半紙を字で埋め尽くして、琴梨だけがほとんど何もせずに部活を楽しんでいるというような日常である。  でも、まあ平和だった。EOSさえ出現しなければ僕も五人も普通に学校行って帰ってくる生活を送るだけだ。そんな何があるわけでもない日が何日が続いた後、ちょっとした事件が起こった。        ☆ ☆ ☆  ある日の夕食後、僕が元は爺《じい》さんのものだった自室でゴロゴロしていた時である。こんこんとドアがノックされ、開けた扉の隙間《すきま》からあろえの顔が覗《のぞ》いた。 「ひーくん、今いい?」  うなずくと、あろえは廊下を気にするようにキョロキョロしてから、素早く入って後ろ手で扉を閉めた。どういうわけかガニメーデスを抱えている。 『男の部屋にあろえさんを一人行かせるわけにはいかないでしょう。いや私は何も期待してなど、ええ、いませんとも!』  そんなことを言うガニメーデスを脇《わき》に置くと、あろえは僕の前に正座した。なんだか心配そうな顔をしている。いつもなら具合が悪い時でも笑っているような顔をしているのにどうしたのだろう。 「あのね、ひーくん……」  そう切り出したあろえは、要領の得ない言い回しで説明を始めた。語り終えるまでにけっこうな時間を費やしたが一言でまとめると、 「ののちゃんの様子《ようす》がおかしい」  と、あろえ。 「学校の帰りに寄り道してるみたい」  どうして解《わか》ったのかと訊《き》くと、 「だって、あたしより先に学校出たのに、この家に帰ってくるのはののちゃんのほうが遅いんだもん。絶対ヘンだよー」  あろえはさらに、 「それにね、ののちゃん、夜中に屋敷《やしき》を抜け出してどっか行ったりもしてるの」  僕はガニメーデスに視線《しせん》を浴びせた。 「本当か?」  屋敷のセキュリティを一身に担っているのがこの羊人形の本体である。ガニメーデスはデカい目をグルグル回しながらあっさり答えた。 『ええ、本当です。埜々香《ののか》さんはこの一週間ほど、誰《だれ》にも気《け》取《ど》られないように夜の外出をなさっておられますよ』 「なぜそれを僕に言わなかった?」  僕はあろえの腕からガニメーデスを奪い取り、スリーパーホールドをかけながら問いつめる。 『固く口止めされていたものですから。オドオドした涙目、それも上目遣いの埜々香さんに懇願《こんがん》されて、私が拒否できるとでも思いますか? できるわけないでしょうが!』  胸を張って言うことじゃないだろう。 「それで、埜々香はどこに行ってるんだ」 『知りませんな。そこまでは私の能力も及びません。年頃《としごろ》の乙女《おとめ》であることですし、逢《あ》い引《び》きの一つでもしているのでは……』  言いながらガニメーデスのアイレンズの回転速度が上がった。 『しまった! それは盲点でしたっ! マズいですよ秀明《ひであき》さん!』 「まさかぁー」  あろえがガニメーデスの頭を撫《な》でて微笑《ほほえ》んだ。 「ののちゃんに限って、それはないと思うよ。コンビニで買い食いでもしてるんじゃないかなあ。あたしもたまにするし」  しかしガニメーデスは聞いたいない。 『じっとしている場合ではありません! 尋問の上、白状させないと! 埜々香《ののか》さんが危ない!」  ガニメーデスの腹部からいきなり四本の長い突起物がにゅうと生《は》えた。前の二本はいいとして、いつの間にか脚が増えている。しかし羊の脚と言うよりは、どう見てもバッタか何かの昆虫のようだぞ、それ。  ぴょんぴょん跳《は》ね回りながら、ガニメーデスは扉に突進し、勢い余って激突《げきとつ》してから床をコロコロと転がって戻ってきた。 「その脚はどうしたんだ?」と僕。 『博士が残してくれていたパーツがあったものですから、凌央《りょう》さんに言って付けてもらいました』 「凌央に?」 『そうです。やや込み入った配線《はいせん》作業が必要だったのですが、彼女なら指示したことを寸分の狂いもなくやってのけますからね。ご覧《らん》ください、この伸縮《しんしゅく》自在の両手足。私は可愛《かわい》らしい置物から、移動式マスコットへの進化を遂げたのです!』  ガラクタに余計な機能《きのう》が備わっただけだ。 「ガーくん、それ、ちょっと怖いよ……」  あろえは僕の後ろに隠れるようにして、突然跳ね出したガニメーデスを恐る恐る見ている。 『なんですと!? ショック! これでせっかくいつでも好きなときにどこへでも忍び込むつもりでしたのに……』  うなだれるガニメーデスだったが、もともとの話題はそんなことではなかった気がする。 「埜々香がどこに行ってるのか、それを突き止めないといけないんだろ」 『それでしたら自律歩行が可能となった私が後をつけてみましょう。逢《あ》い引《び》きの相手は誰《だれ》かは知りませんが、ギッタギタに叩《たた》きのめしてやりますよ。このハイキックで!』  僕は後ろ足を振り回し始めたガニメデを部屋の奥へと放り投げると、あろえに言った。 「まあ多分《たぶん》、実家に顔出してるとかそんなんだと思うけど、心配なら……」  あろえは真剣な表情でうんうんとうなずいている。 「確《たし》かにこっそり後をつけるくらいしかないな。学校帰りにでもやってみるか」 「あたしがする」  いつになくあろえは生《き》真面目《まじめ》な表情である。僕には解《わか》らないが、埜々香《ののか》の秘め事に何らかの異常な雰囲気を感じ取っているのだろう。あろえは声を潜《ひそ》めるように、 「みんなには内緒《ないしょ》にしていたほうがいいかなあ?」 「少なくとも、巴《ともえ》と琴梨《ことり》には言わないほうがいいな」  二人とも、話を聞くや否や埜々香への直接尋問を始めるだろうと思われた。  あろえは素直にうなずき、 「じゃ、明日ね」  と言って部屋から出て行った。 『他《ほか》にも手はありますよ』  ヨタヨタとガニメーデスが寄ってきた。 『埜々香さんは毎日、詳細な日記を付けるという習性をお持ちです。その日記をちょいと盗み見れば、彼女がその日どこで何をしていたのかは一目《いちもく》瞭然《りょうぜん》です。どうでしょう、埜々香さんが不在のときに彼女の部屋に忍び込み、少女の赤裸々な独白が繰《く》り広げられている乙女《おとめ》文学を堪能《たんのう》するという作戦は』  僕はガニメーデスを持ち上げると、近くにあったガムテープで四本の手足を縛《しば》り上げ、枕《まくら》元《もと》に転がした。        ☆ ☆ ☆  次の日。  いつものように、あろえは埜々香と凌央《りょう》の手を引いて学校へ出かけていった。朝食の席で注意深く観察《かんさつ》してみたが、やはり僕の目には埜々香に何か隠し事があるようには見えない。何かにつけてオロオロしている仕草《しぐさ》から何から、普通に埜々香だった。巴と琴梨も気づいていないらしく、彼女たちにも変わったところはない。凌央も同じで、虚空《こくう》を見据えながらトーストを口に運んでいた。あろえだけが、僕と目が合うなりさり気なくウインクを返してきていた。 「まあ、どうせ大したことはあるまい」  全員が出かけた後、僕も大学に行く用意をしながら呟《つぶや》いた。 「埜々香のことだ。ペットショップにでも寄って子犬を眺めてるんじゃないかな」 『秀明《ひであき》さん、そろそろ私を自由にしてくれないものでしょうか』  昨晩以来、テープで固定したまま放っておいたガニメーデスが恨めしそうに呻《うめ》いている。 「人の日記を密《ひそ》かに見ようなどと言う奴《やつ》にはいい罰だ。しばらくそうしてろ」 『殺生《せっしょう》極《きわ》まります。どうかご慈悲を……』 「おっと、急がないと一限に遅れる。じゃなガニ。帰ってきて気が向いたら剥《※は》[#「※」は「剥」の厳密異体字、第3水準1-15-49]がしてやるよ。それまで反省してろ」  ガニメーデスの怨嗟《えんさ》の声から逃れるように、僕は玄関へと踏み出した。        ☆ ☆ ☆  そして夕方である。  僕がスーパーの袋をぶら下げて屋敷《やしき》に帰ってくると、巴《ともえ》一人がダイニングで夕刊を読んでいた。他《ほか》の四人の姿はない。 「あろえたちはまだかい?」  巴はジロリという感じで僕を睨《にら》み、かけていた眼鏡《めがね》を外しながら、 「まだのようですわね。そんなことをわたしに訊《き》かれても困りますわ。わたしはあの子たちの保護《ほご》者《しゃ》でも母親がわりでもないのです。それとも……誰《だれ》もいないのをいいことに、わ、わたしに何かしようと言うのでは……!」  腰を浮かせて筒状にした新聞紙を構える巴に、僕は溜息《ためいき》をついた。 「訊いただけだよ。別に意味はない」  と言いつつ、中等部の三人が揃《そろ》って帰宅していないのも珍しい。この時間ならとっくに戻っていてもおかしくないのに。  あろえの追跡ぶりを想像して不安を覚え始めていると、玄関のほうから賑《にぎ》やかな声が轟《とどろ》いた。 「やっほーっ。ただいま帰ったさっ! ひーくん、巴っ。お土産《みやげ》だっ!」  琴梨《ことり》の大声が、笑い混じりに聞こえてくる。  駆けつけが僕と巴は、たぶん同じような顔をしていたに違いない。  玄関にいたのは声の主だけではない。なぜか体操《たいそう》着《ぎ》姿の琴梨の前には、中等部の三人の姿もあった。あろえは僕を見ると、 「ののちゃんがどこ行ってたかわかったよ」  と言って、安心したような笑みを広げた。凌央《りょう》は「…………」と埜々香《ののか》の手元に視線《しせん》を向けており、今にも泣き出しそうな顔をしている埜々香はびくびくしながら何かを抱きしめていた。  埜々香の腕の中でモゾモゾと動いた『それ』は小さな鼻先を僕に向けると、ぱちくりと瞬《まばた》きをしてから小首を傾《かし》げ、挨拶《あいさつ》するように、 「わん」と鳴いた。        ☆ ☆ ☆  その子犬は通学路の途中にある橋《はし》の下にいた、と埜々香は語った。  最初は飼い犬かと思ったが、いつ見てもその橋の下でじっとしている。たまりかねて夜に見に行っても、やっぱりそこにいて、夕食の残りをやると嬉《うれ》しそうに食べて手をペロペロなめてくれる。とても可愛《かわい》かった。飼いたいと思った。でも言い出せなかった。ずっと悩んでいた。どうしたらいいのだろう。 「飼えばいいじゃないかっ」  と琴梨《ことり》は叫んだ。  全員が居間に集まっている。会議《かいぎ》の開催を巴《ともえ》が宣言したためだ。だが、別にそんな必要もないだろう。琴梨のセリフがすべてである。  ちなみに事の成り行きはこうだったらしい。一人では心もとなかったあろえは、結局|凌央《りょう》を誘って埜々香《ののか》を尾行することにした。その途中、女子サッカー部のロードワーク中だった琴梨に出くわし、そのまま合流。埜々香はまったく気づかずに橋《はし》のたもとへと向かい、子犬にエサを与えているところを三人に踏み込まれた。以上。  僕は子犬を抱きしめて肩を震《ふる》わせている埜々香を眺め、やんわりと言った。 「とっくに猫だらけの家になっているしな。いまさら犬が一匹増えたくらい、どうってことないんじゃないか?」 「ですけども」  巴はわざとらしい渋面《じゅうめん》を作っている。 「猫たちは勝手に入ってきて、そこらを適当にウロウロしているだけですから構いませんわ。言うことをきかない代わりに手間もかからない動物です。でも犬はそうはいきません。定期的な散歩や食事、躾《しつけ》、犬として恥ずかしくない程度の芸の仕込みなど、ちゃんとした世話をしなければならないのです」  巴は埜々香に顔を近づけ、 「あなたにそれが出来て? 言っておきますが、わたしは手を貸しませんわよ」  そんなのみんなでやりゃいいじゃないかと僕が言う前に、 「ぷふふう」  あろえが笑い出した。 「巴ちゃん、なんかお母さんみたいー」 「何を言いますか」  巴は赤面して手を振り回した。 「だだ誰《だれ》がお母さんですか! わたしはまだ誰の母にもなっていないのです! いったい誰が父だと言うのです!?」  けっけけ、と琴梨も笑いながら巴の肩を叩《たた》いた。 「いいじゃん犬! あたしも欲しいと思ってたところだよっ。どれどれ、あっオスだ」  琴梨は埜々香から犬を引ったくると、高く持ち上げて顔を覗《のぞ》いた。  たぶん雑種《ざっしゅ》。全体的に真っ白な毛を生《は》やしているものの、頭のてっぺんにそこだけ黒い星マークのような模様《もよう》がある。  大人《おとな》しい犬もいたもので、最初に鳴いた以外には声を発しない。黒い目に理知的な光を輝《かがや》かせて、されるがままになっていた。 「名前どうしようっ。その前に散歩に行こうか! あっしまった。あたしマラソン中だったっけ? よし、一緒《いっしょ》に走ろう!」  そのまま走り出しそうな琴梨《ことり》を止めたのは、意外にも埜々香《ののか》だった。 「あわ……あわ」  子犬を連れ去ろうとする琴梨の脚に抱きつくように、必死で取りすがっている。 「ダメだよ、琴梨ちゃん」  立ち上がったあろえが琴梨から犬を奪い返し、埜々香に手渡した。たちまちギュウとする埜々香。 「この人はののちゃんのだよ。名前もののちゃんがつけるんだよね? ん? もうついてるの?」  埜々香はおずおずと顔を上げ、わななく唇を開いた。やがて小さな声が、 「ぴょろすけ」  とだけ告げた。        ☆ ☆ ☆ 『犬! 犬ですと? そんなものでいいのなら、私がいつでもなってさしあげるのに』  悔《くや》しがっているのはガニメーデスだ。ガムテープを自力で外してやってきた四足歩行ぬいぐるみは、どこから持ってきたのか首輪《くびわ》とロープを手にぶら下げ、 『さあどうぞ! 存分に私を犬として扱ってください! どちらが可愛《かわい》いか勝負しようではありませんか、ぴょろすけさんとやら!』  僕たちが呆《あき》れていると、 「…………」  凌央《りょう》がすうっと進み出た。やけに素早い手際でガニメーデスをヒモでグルグル巻きにして、 「…………」  終始無言のまま、ガニメーデスを引きずるようにリビングから出て行く。歩くことも出来ずテーブルの足などにガンガンぶつかる羊は、 『あの凌央さん、もっと優《やさ》しくウゲ(ガン)、扱いをオゴ(ゴン)、……ああ、でもこれはこれでいいような気がし……(ガン)』  凌央なりに気を利かせて邪魔《じゃま》者《もの》を連れ去ってくれたのだ、と僕は思うことにした。 「あたしも自分の犬探してくるよっ。どっかに落ちてるよねっ!」  琴梨もまた体操《たいそう》着《ぎ》で勢いよく走り去り、あろえは「猫ご飯、食べる?」とぴょろすけに問いかけて、巴《ともえ》はさっそくお手を教え始める。 「あの……そ」  埜々香はぷるぷるしながら僕の前にやって来て、何かを言いたげである。だいたい解《わか》る。 「あろえが心配してた」  と言うと埜々香《ののか》はビクッとして目を閉じた。 「一人で思い悩むよりはさ、僕なり他《ほか》の誰《だれ》かなりに言ったほうがよかったな。次からはそうできる?」 「……は、は……い」  両手を握り合わせて埜々香は決死の面持ちで首をがくがくと振る。  まあ反対する気は全然ないが、もしそうだったのだとしても、この様子《ようす》を見ていれば飼えないとは言えなかっただろうな。  琴梨《ことり》が帰ってきたのは一時間後。 「いやあいい汗かいた。あっ、晩ご飯だ! やほーい」  犬探しをすっかり忘れてジョギングしていたらしかった。そうそう犬は落ちていない。        ☆ ☆ ☆  それからの埜々香、いや我が屋敷《やしき》の生活は完全にぴょろすけを中心として回るようになっていた。何のかんの言いながら巴《ともえ》も世話焼きで、躾《しつけ》と称して子犬にかまいたがっては様々な芸を教えている。物覚えが極端にいい犬で、一度教えたことは決して忘れず、数日後には逆立ちして歩くまでになって皆の歓声《かんせい》を誘った。 [#挿絵画像 (01_201.jpg)]  学校以外、どこに行くにも埜々香《ののか》と一緒《いっしょ》にいて、夜は当然同じベッドで眠ったり風呂《ふろ》に入ったりしてはガニメーデスを悔《くや》しがらせていた。 『本来あの役をするのは私だったのに! 私だって埜々香さんに抱かれて眠ったり洗われたりしたい! あなたもそう思うでしょう!?』  悪いけど、僕だって子犬のほうが可愛《かわい》い。  普段《ふだん》の調子《ちょうし》を変えないのは凌央《りょう》くらいだった。あろえと琴梨《ことり》も何か理由をつけては埜々香の部屋を訪れては、ぴょろすけと戯《たわむ》れている。一度琴梨が散歩に連れて出たときなど二時間くらい帰ってこなくて埜々香が泣きかけ、それ以来ぴょろすけ散歩禁止令が琴梨に課《か》せられた。今は早朝と夕方の二回、埜々香がリードを持って館《やかた》の周囲を散歩するのが日課《にっか》だ。  ところで一つだけ奇妙に思えることがある。屋敷《やしき》の内外を問わず、あれだけ群れていた猫たちがすっかり姿を見せなくなってしまったのだ。それまで平気な顔をして上がり込んでいたくせに、庭にも立ち入らなくなっている。犬がいるようになったからかな。しかしこの家にほとんど住み着いていた数匹までが示し合わせたように消えてしまったのは不可解だよなとは感じたものの、深く考えることはしなかった。そのうち戻ってくるだろう。  そう思いつつ数日が過ぎ、ある夜、僕の部屋をノックする者がいた。 「どうぞー」 「…………」  入ってきたのはガニメーデスを抱えた凌央である。僕は雑誌《ざっし》の付録《ふろく》に付いてきたフィギュアを作る手を休めて、思わぬ訪問者へと目を向けた。凌央がやってくるなんて珍しい。 「どうした? 宿題で解《わか》らないところでもあった?」  凌央はゆっくりと畳に正座するとガニメーデスを横に置き、愛用の勧進《かんじん》帳《ちょう》を取り出してめくって見せた。『重大発表』と流麗《りゅうれい》な篆書《てんしょ》で書いてある。さらに凌央はページを繰《く》り、『ぴょろすけ』、『ヤバイかも』、『詳細はガニメーデスに』という文字群を僕に見せ、黙《だま》りこくったままじいっと僕を見つめた。 「……おいガニ。通訳してくれ」 『あー、そうですねえ』  幾分か浮かない声でガニメーデスは、 『実に言いづらいことが発覚しました。ですが発表しないわけにはいきますまい。まさしく重大発表ですよ、これは』 「何だよ。ぴょろすけがどうかしたのか?」 『ええ、問題はあの犬にあります。いえ、と言うかですね、調《しら》べましたところ、ぴょろすけさんは犬ではありません』 「そんなバカな。どこからどう見てもあれは犬に見えたぞ。まさかニホンオオカミだとでも言うんじゃないだろうな」 『ああ、それならまだ良かったのですが……』  苦悩に満ちた声で、ガニメーデスは続く言葉を発した。        ☆ ☆ ☆ 「なんだって?」  ガニメーデスのそのセリフを聞いた後、僕はしばらく茫然《ぼうぜん》としてから頭を抱えた。 「……それを埜々香《ののか》にどう言えばいいんだ? あんなに子犬を可愛《かわい》がっているのにさ」 『しかし事態は急を要します。放置できる問題ではありませんよ。迅速《じんそく》に行動しなくては』  凌央《りょう》は黙然《もくねん》と僕を見ている。すべての選択《せんたく》権《けん》が僕にあるとでも言うかのように。 「……しかたがない。皆を集めてくれ。場所は……司令室でいいだろう。とにかく急ごう」  するり立ち上がり、凌央はガニメーデスを置いたまま部屋から退場した。  ——三十分後。  全員が地下一階にある司令室に集合していた。凌央を除く四人は寝入りばなだったようで揃《そろ》ってパジャマ姿である。  そして凌央だけが戦闘《せんとう》用《よう》の衣装を身にまとっていた。 「何なのです?」  と、巴《ともえ》は口を尖《とが》らせた。 「わたしの眠りを妨げてまで、伝えなければならない緊急《きんきゅう》の用があるとでも言うのですか?」  あろえも言った。眠そうに、 「うーん……。凌央ちゃん、なんでそんな格好してるの? ヘンなお化けが出てきたの?」  琴梨《ことり》は立ったまま半分寝ているようでユラユラさせ、無言。  埜々香はぴょろすけを抱いて、不安げな視線《しせん》を僕と対EOS用コスチュームを着た凌央に送っていた。その様子《ようす》が僕の心に微《かす》かな罪悪感を生じさせる。  数瞬《しゅうしゅん》の沈黙後、卓上のガニメーデスが口を開いた。僕の部屋で喋《しゃべ》ったのと同じセリフ。 『ぴょろすけさんは犬でもなければこの世の生命体でもありません。我々の敵である他次元侵略体が子犬に擬態《ぎたい》している姿なのです。つまり、彼はEOSなのですよ』        ☆ ☆ ☆  最初に気付いたのは凌央らしい。何だかよく解《わか》らないが普通の犬ではないような気がしたという凌央は、埜々香の目を盗んでぴょろすけを地下の研究室(爺さんの実験《じっけん》失敗で半壊《はんかい》した部屋だ)に連れて行き、かろうじて全損を免れていた分析装置にかけた。実際に分析したのはガニメーデスで、その結果、 『見かけは完全に雑種《ざっしゅ》犬《けん》です。仕草《しぐさ》や反応もほぼ犬と同じと言えます。ですが毛先を切り取って調《しら》べるとですね、ぴょろすけさんにはDNAに相当するものがありませんでした。それどころか、この世の物質で構成されていません。なんだか解《わか》らない未知のエネルギー体なのです。  そして今まで登場したEOSのエネルギー反応と近似率が99.9903%。まず間違いなくEOSの新種です』  僕と凌央《りょう》以外の全員がポカンと口を開け、そののちに目をぴょろすけへ向けた。埜々香《ののか》の腕の中にいる子犬は、賢《かしこ》そうな顔をして飼い主の顔を見上げている。頭の星状模様が目を引いた。 「うそでしょう?」  ようやく言ったのは巴《ともえ》で、埜々香は声もなく立ちつくしている。 『本当です』とガニメーデス。『凌央さん、よろしくお願いします』  その合図と共に、凌央のコスチューム姿が青白い燐光《りんこう》に包まれた。Dマニューバを起動したのだ。ゆっくりと歩き出す先に、埜々香の小さな姿がある。 「ひっ……」  埜々香の脚はすくんでいる。凌央はあくまで淡々と歩みを進め、ゆるやかな動きで片手を差し伸べて、青い微光をまとった指先を子犬の耳に触れさせた。 「きゃん」  ぴょろすけが鳴くと同時に、ぱちっと静電気が弾《はじ》けたような音がする。  とすんと埜々香は尻《しり》餅《もち》をついていた。凌央はそれ以上手を触れようとはしないが、これで充分だ。 「そんな……」  呻《うめ》いたのは巴かあろえか。  凌央が触れたぴょろすけの耳が、蛍光ピンクの光を放っていた。さんざん目に焼きついているEOSの光だ。凌央の光に反応して、粉々になったガラス片のようにきらめくそれは、やがて復元して元通りの耳の形を取り戻した。そう、EOSは <核> を破壊《はかい》しないと何度でも再生する……。 『その犬はEOSの幼体か種子のようなものだと思われます。カサンドラシステムに引っかからなかったのは、現在のぴょろすけさんが持つ次元エネルギーがあまりに微量だからですね』 「ふうん」  琴梨《ことり》が大きくあくびをして、「じゃあさ、害はないじゃん。このまま放っておいてもいいんじゃないかなあ」 『そうはいきません。これまで登場したEOSたちも最初はごく小型の姿でこの世界に現れ、一定期間の後に巨大化したものだと私は推測するのです。ぴょろすけさんもいずれは……』  へたり込んだ埜々香は、ぴょろすけを守るように抱えている。僕はガニメーデスに尋ねた。 「どれくらい保《も》ちそうなんだ? ぴょろすけがバケモノになるまで、あと何日かかる?」 『まったく予測不能です。三日後かもしれないし一年後かもしれません。一時間後か、三十秒後という可能性もあります。確実《かくじつ》なのは昨日まで大丈夫だから明日も安心、とはならないということです。即刻、殲滅《せんめつ》する必要があります——あ、埜々香《ののか》さん!』  あんなに素早く動いた埜々香は始めて見た。埜々香はぴょろすけをしっかりと抱いたまま、身を翻《ひるがえ》して司令室から逃だしたのだ。誰《だれ》一人止めることなどできはしない。 「ののちゃーん」  真っ先に我に返ったあろえがパタパタと後を追う。二階への階段を上がる音がしたから、埜々香の行く先は彼女の自室だろう。 「それで、どうするのです」  巴《ともえ》が困りつつ怒っているような顔で言う。 「ぴょろすけがEOSだというのは納得しましょう。でも……しかし……わたしは……」  言いたいことはよく解《わか》る。僕だって可愛《かわい》がっていたペットがバケモノの子供だったからと言われて、はいそうですかとあっさり消滅させる気分にはならない。 『危険なのですよ。こうやって話をしている時にでも、もしぴょろすけさんが巨大EOS化したらどうしますか。やられるのはこちらのほうです。この世界すべてが別次元に飲み込まれてしまいますよ』  ガニメーデスが言うことだって解る。問題は感情が否定しているということだ。特に埜々香の感情をどうすればいいんだ?  僕は意見を求めるように三人の顔を順に見た。  凌央《りょう》は口を閉ざした状態を保ち、巴は僕が悪いとでもいうように睨《にら》みつけている。琴梨《ことり》だけが気楽な笑みを浮かべて、 「なんとかなるよっ。だってぴょろすけは可愛いもんね! 可愛いものに罪はないのさ!」  空気を明るくするつもりか、あっけらかんと提案した。 「とりあえず今日は寝ちゃおうよ! 明日になったらぴょろも直ってるかも! 心配ないって!」  とてつもない名案であるように思えた。        ☆ ☆ ☆  翌朝、埜々香は子犬と部屋に篭《こ》ったまま、出てこようとしなかった。あろえが呼びかけ、琴梨が戸を叩《たた》いても何の反応もない。 「ひーくん、ののちゃんをよろしくね」  学校へ行く間際、あろえが微笑《ほほえ》み辛《つら》そうな成分を込めて僕に言った。 「あたしもどうしていいのかわかんないけど……。うーん、えーと、きっと……うーん」  巴はむっつりしていて、琴梨の口数もいつもより少ない。凌央だけが平常心を持っているようだが口数と表情はほぼ皆無《かいむ》なのでよく解らない。学校へ出かけて行く四人は、通学|鞄《かばん》だけでなく戦闘《せんとう》衣装とアイテムの入ったバッグを提げている。万一のときにはそれらを使うしかない。  僕は大学を自主|休講《きゅうこう》にして、埜々香《ののか》の様子《ようす》を見守る役である。朝食はトレイに載《の》せて埜々香の部屋の前に置いておいた。もちろんぴょろすけの分も。 「困っちまったな」  僕が自室で腕組みをしてテレビを眺めている。画面に映っているのは番組放送ではなく、ガニメーデスの盗撮《とうさつ》カメラが隠し撮《ど》りしている埜々香の部屋の様子だった。埜々香はぴょろすけとベッドに潜《もぐ》り込んでグスグス小さな声を漏らしていた。 「おいガニメーデス、なんとかならないのか」  畳んだ布団の上でガニメーデスはレンズをぐるりと回した。 『こればっかりはどうしようもないですな。埜々香さんには気の毒ですが、今のところEOSとこの世界が共存できる方法はありません。博士がいたら何とかしてくれたかもしれませんが、いまごろ次元の彼方《かなた》でしょうしね』 「いつ帰ってくるんだ?」 『私に訊《き》かれても』 「だよなあ……」  何とか頭を回転させては見るものの、出てくるのは溜息《ためいき》しかない。僕はテレビの電源を消して、ごろりと横になった。一人で思い悩む前に誰《だれ》かに言うように——そう言ったのは僕だ。まったく自分が情けない。いざこうなってみると、僕にも打つ手がないのだ。そして時間は刻々と過ぎていく。 『のんびりしてはいられませんよ。今日と同じ明日が来るとは限らないのです』  返事代わりに僕はガニメーデスを引き寄せ、それを枕《まくら》にして目を閉じた。        ☆ ☆ ☆  結局何も思いつかないうちに一日が過ぎて、また夜が巡ってきた。埜々香は引き籠《こ》もったままである。  一人欠けた夕食の席は、ただそれだけで寂しいものがあった。巴《ともえ》が僕の料理にイチャモンをつけたり、琴梨《ことり》が凌央《りょう》のオカズをかすめ取ろうとしてあろえに窘《たしな》められたりといったことは一切なく、まるでお通夜《つや》のような食事の時間。 「何かないのですか、何か」  巴が耐えきれなくなったように叫んだ。 「あなたも博士のお孫さんなら、こういうときに発明の一つでもできるでしょう」 「そだ」  あろえが目を輝《かがや》かせ、 「博士に連絡して戻ってきてもらおうよ。どこに電話したらいいのかな?」 「あたしはぴょろと散歩したいよっ!」  と琴梨《ことり》が言い、凌央《りょう》は相変わらず、 「…………」  僕は箸《はし》を置いてまとめて答えた。 「僕に爺《じい》さんほどの頭はない。それに爺さんは電話の繋《つな》がらない所にいるらしいし生きてるかどうかも怪しい。ぴょろすけとは僕だって散歩したい」 『こういうのはどうでしょう』  ガニメーデスがテーブルの隅で発言した。 『私が子犬のかぶり物を着て、ぴょろすけさんとすり替わるのです。そうすれば埜々香《ののか》さんも私を愛するあまりぴょろすけさんを忘れるかも——』  言い終えることなく、ガニメーデスは巴《ともえ》のパンチを食らって台所まで飛んでいった。        ☆ ☆ ☆  その真夜中のことだ。とうに時計は次の日を刺しているがどうにも眠れない。ぼんやりするだけの頭をもてあまし気味に布団で寝返りを打っていると、  こんこん。  扉を叩《たたく》く音がした。やけに小さい、控えめなノックだ。こんな夜《よ》更《ふ》けに誰《だれ》だろう。あろえ、凌央ときたから次は……。 「あ……あの、あの……」  埜々香だった。ぴょろすけも連れている。寝間着《ねまき》姿の埜々香は、泣き出す寸前の顔で僕の足元に目を落としていた。 「……うう、ああ、な」  呻《うめ》くような呟《つぶや》きを漏らす埜々香を、僕は部屋に入れて座らせる。ついでに枕《まくら》元《もと》でイビキをかいているガニメーデスを蹴飛《けと》ばした。コンピュータ端末のくせに寝てるんじゃない。  最大級の勇気を振り絞ってここまで来たのだろう。埜々香は全身を細かく震《ふる》わせながら切れ切れに語った。長くなるので要約する。  埜々香もまた事態の対処には爺さんにすがるしかない考えたが、爺さんは実験《じっけん》の失敗で時空のどこかを彷徨《さまよ》っている。しかし連絡だけでもつけばヒントをくれるかもしれない。そのための道具が研究室にあるかもしれない。あって欲しい……。 「研究室か……」  司令室の隣《となり》にある地下室の一室だ。爺さんが大《だい》爆発《ばくはつ》を起こして大破させ、壊《こわ》れた機械《きかい》やら何やらが転がっているだけの部屋。 「わかった。行ってみよう。使えそうな物が残っているかもしれないな。分析器はあったんだろ? 他《ほか》にも何かあるだろう」 『私もお供します』  にょっきりと四本の脚を出し、ガニメーデスが率先して歩き出した。 『機械《きかい》のことなら任せてください。私のデータ上には、次元間通信機のようなものはありませんが、別の形で残っているかも』  僕とガニメーデスとぴょろすけを抱く埜々香《ののか》は、深夜の館《やかた》の地下室へと赴《おもむ》いた。電灯が灯《とも》っていても暗い雰囲気がするのは、静まりかえっているからだろう。僕たちの足音しかしない。  しかしデコボコだらけの研究室の扉を開いたとき、僕の目が捕らえた光景は不意をつくものだった。 「…………」  メチャクチャに荒れ果てた室内に、パジャマ姿の小さな人影《ひとかげ》が一人しゃがみこんでいる。  いつもはまとめている長い髪をボサボサにしているその少女——凌央《りょう》は緩慢《かんまん》な動きで振り向いた。  足元に何枚もの紙を広げ、片手にハンダゴテを持っている。膝《ひざ》の上に巨大なマザーボードみたいな電子回路を載せていた。何本もの銅線がその回路から壁際《かべぎわ》のコンソールに伸びている。  ガニメーデスが昆虫のようにささっと凌央の脇《わき》へと急ぎ、 『おおっ、これは! まさしく次元間通信装置ではないですか! ほほうっ。博士は手書きで回路図を描《か》いていたのですか。道理で私が知らないはずです』  僕も早足で凌央のもとに向かう。 「凌央、お前が作ったのか?」  凌央はしばらく無言で僕を見上げてから、 「作り中」  そしてハンダゴテを器用に操《あやつ》り、ちょいと回路のどこかに押し当てて、 「できた」  凌央が差し出す変な装置を受け取り、僕はしげしげと眺める。点《つ》いていないランプが一つと、スイッチが一つ。これを押せばいいのだろうか。 「あの……」  埜々香が怖々《おずおず》と顔を出した。凌央はゆるゆると立ち上がって僕を見つめる。  考えるのは後回しでいい。とにかくここは凌央を信じておこう。ままよとばかりに僕はスイッチを押しこんだ。赤い光がランプに灯《とも》り、点滅を開始する。 「ところでマイクはどこだ。どうやって通信すればいいんだ?」  凌央は応《こた》えず、じっとランプの発光を観察しているようだったが、次第に点滅間隔を短くしていく赤い豆球に何を思ったか、すたすた歩くと部屋の隅に向かい、そこで僕たちに背を向けてうずくまった。 「え?」  赤ランプの点滅はどんどん速くなっていく。なんだか悪い予感が……。 『えー、秀明《ひであき》さん』  ガニメーデスが咳《せき》払《ばら》いじみた音を立て、 『それ、まもなく爆発《ばくはつ》しますよ』 「なにいっ?」  僕が機械《きかい》を放り出し、埜々香《ののか》を抱き寄せて床に倒れたその瞬間《しゅんかん》、  どごん、という鼓膜《こまく》に響《ひび》く大《だい》音響《おんきょう》をたてて爆煙が上がった。目の端っこに部屋の反対側へと転がっていくガニメーデスが見える。ついでに別のものも見えた。もうもうとした煙の中、そこに背の高い人間の姿がある——。 「爺《じい》さん!」  僕は飛び起きた。 「戻ってきたのか!?」  そこに立っているのは、しばらくぶりに見る僕の祖父に間違いない。皺《しわ》深《ぶか》い顔に興味《きょうみ》深《ぶか》そうな表情を広げ、睥睨《へいげい》するように僕たちを見下ろしている。  とっさに僕は爺さんの身体《からだ》に手を伸ばし……そして何もつかめないことに驚《おどろ》いた。 <秀明。お前か>  さらに驚いた。頭に直接声が響く。よくよく見ると、爺さんの身体は半分|透《す》けていた。 「おい爺さん、まさか幽霊《ゆうれい》に……」 <いや、違う>  唇を動かしていないのに声が聞こえる、というか感じられる。半幽霊化した爺さんは僕を見据えた後に室内を眺め渡し、 <製作途中の実験《じっけん》機《き》を強引に作動させたな。もったいないことだ。二度と使えまい>  爺さんは自分の襟元《えりもと》に付いた見覚えのあるバッジに指を触れさせた。 <そのデモンストレータからエマージェンシーが届いたので、一時|帰還《きかん》してみたが、なるほど>  興味深そうな顔をして二回ほどうなずき、埜々香の手元を覗《のぞ》き込んだ。鷲《わし》のように鋭《するど》い目線が、ぴょろすけを捉《とら》えている。 <面白《おもしろ》い存在だ。まさかEOSがこのような形態をとりうるとは。ふうむ> 「あ、ああ、そうなんだ。説明するよ、爺さん。実は……」 <事情はすでに解《わか》っておる>  爺さんは頭をこつこつ叩《たた》く仕草《しぐさ》をする。 <お前たちの思考を読み取った。その子犬型EOSを無害化すればよいのであろう>  いつの間に爺さんは超能力者になったんだ? しかも半透明の。 <私が長年研究していた次元多様体拡散|震動《しんどう》理論の成果だ。まだ道半ばだがな。お前が見ているこの姿はかりそめの幻影《げんえい》に過ぎん。私の本体は現在、この時空間より遥《はる》か高次の空間にいる。そのため私自身も高次元的存在に変質しておるようだ> 「あっあっ……」  腰を抜かしている埜々香《ののか》の手から、ふわりとぴょろすけが浮かび上がった。宙を飛んだ子犬はそのまま爺《じい》さんの手もとへ。  ぴょろすけは四本の足を折り曲げて、爺さんの前でじっとして浮かんでいる。知性的な瞳《ひとみ》が対面した人物の顔を見て、埜々香のほうに首を回して一声鳴いた。 「わん?」  埜々香は反射的に手を伸ばしたが、それを押しとどめるように、 <次元に空いた亀裂《きれつ》を塞《ふさ》ぐまで今しばらくかかる。秀明《ひであき》、それまでこの娘《こ》たちを頼むぞ。この場にいない、他《ほか》の三人もな>  落ち着いた声——でないような、しかし <声> としか言えないものを響《ひび》かせる爺さんに、僕は言った。 「その子犬はどうなるんだよ。爺さん」 <安心するがいい。いずれ私がすべての仕事を終え、この世界に復帰するときにともに帰ってくる。単なる一匹の犬として>  埜々香がよろよろ立ち上がる。泣き出す数秒前の顔だ。爺さんは笑いかけた。 <埜々香、待っているがいい。この犬は私が全責任をもって預かろう。必ずまた会う日が来る。それまでの辛抱《しんぼう》だ>  爺さんの姿がどんどん薄《うす》くなっていく。  同時に、ぴょろすけの姿も。 <案外、この犬こそが二つの次元を繋《つな》ぐ掛け橋になるかもしれん。私が実体を伴って帰るまで、埜々香。この世界を守っておいてくれ> 「あう……は……。う」  星マークのついた頭が首を傾《かし》げて埜々香を見つめた。黒い瞳に埜々香のベソかき顔が映っている。 「わん」  ぴょろすけが一声鳴くのを合図としたように、爺さんとぴょろすけの姿の霞《かす》むスピードが加速した。  一人と一匹が完全に消える直前、 「ぴょろすけーっ!」  埜々香が大声で叫ぶのを、僕はこの時初めて聞いた。        ☆ ☆ ☆  爆音《ばくおん》を聞きつけたあろえと巴《ともえ》と琴梨《ことり》が駆けつけたのはその直後だった。僕は三人にここで起こったことを説明し、床に崩れ落ちて肩を揺らしている埜々香《ののか》を託した。凌央《りょう》はと言うと、少し離《はな》れた所で僕らの様子《ようす》を見ていたが、僕に小さくうなずきかけるとてくてく歩きで研究室を出て行った。まるで何もなかったように。  そして——。  翌日から、日常はだいたいいつもの風景を取り戻した。彼女たちは学校から帰ってくると、それぞれに思い思いの時間を過ごしている。たとえば、あろえは子犬のぬいぐるみを熱心《ねっしん》に作っているし、琴梨《ことり》は再びたむろするようになった猫たちを追いかけ回し、凌央はガニメーデスをヒモで縛《しば》ってそこらを引きずり回したり、巴《ともえ》は何も言わずに犬のカレンダーを買ってきて居間につり下げた……。  Dマニューバの練習も怠《おこた》っていない。今日も僕が大学から戻ると、縁側《えんがわ》で埜々香がリコーダーを吹いていた。なかなか上達しない演奏技術は変わっていないが、ただ一つ、あの日以来変化したことがあった。  三匹の精霊《せいれい》犬《けん》の頭に、星型の模様がついている。 [#挿絵画像 (01_221.jpg)]  あとがき代わりの思い出話  あとがき代わりの思い出話です。  それはまだ『学校を出よう!㈰』のプロットをこね回していた時のことでした。 「ところで、今後『電撃《でんげき》萌王《もえおう》』で新しく読者参加ゲーム企画を立ち上げるらしいんですが、あなたキャラ設定する気はありませんか」  担当|編集《へんしゅう》氏がそのようにおっしゃいました。  そんな楽しそうなこと、もちろんするに決まっています。氏は続けて、 「三人から六人くらいの女の子が主人公のところに突然やってくる、みたいな感じのやつです」 「なるほど。それで、登場人物を作るだけでいいんですか?」と僕。 「何でしたら全部考えてくれてもけっこうです」 「全部って、ストーリーとか世界《せかい》観《かん》とかゲームシステムだとか、そんなのでしょうか」 「そんなのです。採用されるかどうかは解《わか》りませんが、では週明けまでに企画書を提出してください」  そんなわけで僕は十人くらいのキャラクターをひねり出してから二グループに分け、二|種類《しゅるい》のストーリーと世界観とゲームシステムを付け加えた上で、企画書(そんなもの書いたこともないので多分《たぶん》こんな感じではないかと僕が想像する企画書っぽいシロモノ)にまとめて提出しました。  しばらくして電話があり、担当さんは、 「編集長が言うには、キャラクターのコンセプトをもう少し明確《めいかく》にして欲しいとのことです」 「コンセプトと言いますと」と僕。 「ようするに妹だとか教師だとかナースだとか従姉妹《いとこ》だとか幼《おさな》馴染《なじみ》だとか」 「なるほど」  そういうわけで僕は十種類のコンセプトをひねり出してから十種類の物語的プロットを付け加えた上で提出しました。  そのうちの一つにあった戦隊ものでいこうということで方向性は決定し、 「とりあえず試しに第一話を書いてみてください」 「わかりました」  その後、文庫担当|峯《みね》様を仲介業者にした伝言ゲームのようなやり取りが萌王編集長ベンツ中山《なかやま》様との間で何度か実行され、テストパターンとして書いてみた第一話(仮)が三稿くらいまで進んだあたりでしたか。 「一度こっちに来て打ち合わせしてみてください」  というわけでこれがメディアワークスを訪れる最初の機会《きかい》でした。文庫担当|峯《みね》様とちょろりんと挨拶《あいさつ》したのち、萌王《もえおう》編集長ベンツ中山《なかやま》様およびヴィジュアル担当|後藤《ごとう》なお様とでブレーンストーミング的打ち合わせなるものをおこない、ちなみにこのようないかにも打ち合わせぽい打ち合わせをしたのは後にも先にもこの時だけで、そのせいか非常に楽しい思い出として僕の記憶《きおく》の片隅に収納さえています。  そうこうしているうちに当初はシナリオ形式の読者参加企画だったもののはずが、いつの間にか普通に小説を書くことになっていて、それはどちらかと言えばありがたいことでした。その上こうして一冊にまとめていただき、ありがたさもさらに倍増です。  企画の産みの親でありいつも明快な指標《しひょう》をくださるベンツ中山編集長、コンセプト段階で様々なインスパイアを与えてくれた文庫担当峰様、超愛らしいイラストとともにラフスケッチで面白《おもしろ》い小ネタやアイデア(ガニメーデスに足がはえたりとか)を提供していただいた後藤なお様にお礼申し上げます。  そしてもちろん、この本を読んでいただいた方々に無限の感謝《かんしゃ》をお送りしつつ、それではまた、いつの日にか。 [#改ページ]  ◎谷川 流著作リスト 「学校を出よう!  Escape from The School」(電撃文庫) 「学校を出よう!㈪ I-My-Me」(同) 「学校を出よう!㈫ The Laughing Bootleg」(同) 「学校を出よう!㈬ Final Destination」(同) 「学校を出よう!㈭ NOT DEAD OR NOT ALIVE」(同) 「学校を出よう!㈮ VAMPIRE SYNDROME」(同) 「涼宮ハルヒの憂鬱」(角川スニーカー文庫) 「涼宮ハルヒの溜息」(同) 「涼宮ハルヒの退屈」(同) 「涼宮ハルヒの消失」(同) 「涼宮ハルヒの暴走」(同) [#改ページ]  本書に対するご意見、ご感想をお寄せください。  あて先  〒101−8305 東京都千代田区神田駿河台1−8 東京YMCA会館  メディアワークス電撃文庫編集部 「谷川 流先生」係 「後藤なお先生」係 [#改ページ]  電撃文庫  電撃《でんげき》!!イージス5 谷川《たにがわ》流《ながる》  発行 二〇〇四年十一月二十五日 初版発行  発行者   佐藤辰男  発行所   株式会社メディアワークス        〒一〇一−八三〇五 東京都千代田区神田駿河台一−八        東京YMCA会館         電話〇三−五二八一−五二〇七(編集)  発売元   株式会社角川書店        〒一〇二−八一七七 東京都千代田区富士見二−十三−三        電話〇三−三二三八−八六〇五(営業)  装丁者   荻窪裕司(META+MANIERA)  印刷・製本 あかつきBP株式会社  乱丁・落丁はお取り替えいたします。  定価はカバーに表示してあります。 〔R〕本書の全部または一部を無断で複写(コピー)することは、著作権法上での例外を除き、禁じられています。  本書からの複写を希望される場合は、日本複写権センター(�03−3401−2382)にご連絡ください。  (c) 2004 NAGARU TANIGAWA  Printed in japan  ISBN4-8402-2852-3 C0193  Ver.1.00 20060728 [#改ページ]  電撃文庫創刊に際して  文庫は、我が国にとどまらず、世界の書籍の流れのなかで “小さな巨人 ”としての地位を築いてきた。古今東西の名著を、廉価で手に入れやすい形で提供してきたからこそ、人は文庫を自分の師として、また青春の思い出として、語りついてきたのである。  その源を、文化的にはドイツのレクラム文庫に求めるにせよ、規模の上でイギリスのペンギンブックスに求めるにせよ、いま文庫は知識人の層の多様化に従って、ますますその意義を大きくしていると言ってよい。  文庫出版の意味するものは、激動の現代のみならず将来にわたって、大きくなることはあっても、小さくなることはないだろう。 「電撃文庫」は、そのように多様化した対象に応え、歴史に耐えうる作品を収録するのはもちろん、新しい世紀を迎えるにあたって、既成の枠を越える新鮮で強烈なアイ・オープナーたりたい。  その特異さ故に、この存在は、かつて文庫がはじめて出版世界に登場したときと、同じ戸惑いを読者人に与えるかもしれない。  しかし、 < Changing Time, Changing Publishing > 時代は変わって,出版も変わる。時を重ねるなかで,精神の糧として,心の一隅を占めるものとして、次なる文化の担い手の若者たちに確かな評価を得られると信じて、ここに「電撃文庫」を出版する。  1993年6月10日  角川歴彦 [#挿絵画像 (01_229.jpg)] [#挿絵画像 (01_230.jpg)] [#挿絵画像 (01_231.jpg)] [#挿絵画像 (01_232.jpg)]